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徒歩5分の迷宮

迷子を主人公にした偽本の二作品を見てからというもの、彼らへの共感と羨望が止まらない。
大人になっても迷子になってしまうことへの共感と、両手を顔に泣き出せてしまうことへの羨望。
悲しいことに私はもう、道で泣きたくても泣けるような年ではない。

迷子の一葉(原作:最後の一葉)

大人なのに。」と言われたって、迷子になる時あるよね。泣かないで、一葉。

原作はO・ヘンリーの『最後の一葉』。肺炎を患う画家のジョンジーが窓から見える蔦の葉に自分の運命を重ねて「あの葉がすべて落ちたら私も死ぬんだわ」と言い出す話。
大変申し訳ないけれど、初めて読んだ時は「なんて人騒がせな奴なんだ!しっかりしろ、ジョンジー!」とその儚げな言動に喝を入れたくなった。

モヒカン族の迷子(原作:モヒカン族の最後)

サボテン林で迷子!その心細さを想像するだけで思わずうるっときてしまう作品。モヒカン族にとってイギリス軍が味方であっても敵であっても、ともかく出会えた人に縋るしかなさそうな状況ですよねこれは。無事に帰れるといいねと願わずにはいられない。

こちらの原作『モヒカン族の最後』(ジェイムス・フェニモア・クーパー 著)は、イギリスとフランスの植民地争いに巻き込まれたインディアンたちの悲劇だ。
アメリカをめぐる争いで焚きつけられる、インディアン同士の敵対心。
モヒカン族のチンガチグックと息子のアンカス、白人のホークアイがフランス側についたヒューロン族からイギリス人の姉妹を守り、親の元に送り届けようとする様は手に汗握る展開。

そんな原作の「最後」という悲壮感漂うワードが「迷子」に変わるだけで、どうしてこんなにコミカルになってしまうのだろう。
迷子とは、迷っている本人にはかなり深刻な事態にもかかわらず、外から見ればどことなく間の抜けた事態に見えてしまう困った言葉である。

私は数年前の就活中に、「迷子になってしまったので伺えません」と志望企業に面接辞退の電話をかけたことがある。
面接会場は駅から徒歩5分のはずだった。余裕を持って30分前に駅に着いたのに、たどり着けなかった。
地下鉄の出口も出口から見えるコンビニの位置も、グーグルマップに表示されている目印らしきものはすべてルーズリーフに書き写していたにもかかわらず、たどり着けなかった。

その頃私はスマホに対して、より正確に言えばLINEに対して「開いた瞬間に既読が相手に知られるなんて監視社会の始まりだ!」とめちゃくちゃに怯えており、頑なにガラ携での就活を貫いていた。
だから初めての場所を目指す時はいつも、大学のパソコンで乗り換えや周辺地図を調べて出力するかルーズリーフにメモして臨んでいた。
それでもなお、あるいはそれゆえに、たどり着けない場所は多々あった。

他の会社を受けた際、説明会の会場になんとか滑り込んだこともある。
やはり駅から5分のはずの会場に開始10分前になっても着くことができなくて、焦ってその場にいた佐川のお兄さんに道を聞いた。彼はびっくりするほど親切な人で、荷台をガラガラと押しながら会場まで連れて行ってくれた。
おかげで私はギリギリ間に合った会場で、説明をろくすっぽ聞かずに会社案内の裏面にずっと佐川急便の本社に送るためのお兄さんの勇姿を書きつける羽目になった。あのお兄さんと働けるなら佐川もいいな、でもこんなに方向音痴な時点で絶対落ちるなと勝手にへこんだ。

道に迷う予感しかしなくて、愛媛のワンデーインターンに彼氏同伴で参加したこともある。
彼氏同伴でインターン」と書くといかにも社会を舐めてる感じがするけれど、当時の私にとってはそれが会社に対する最大限の敬意の払い方だった。
ちょうど大学も夏休みということもあり、また彼が中高生時代を過ごした愛媛の私立校を懐かしがっていたこともあり、旅行がてら付いてきてもらった。
正直、坊ちゃん列車に乗ったことと彼氏があり得ないほど腹を壊したこと、道後温泉がとてもよかったことしか覚えていない。

迷子になって困ったのは就活だけではない。
数年前、留学中の友人を訪れたスコットランドからの帰り道。
友人は授業があったので一人で市街地へ向かい、空港行きのバスに乗ることになった。
が、歩けど歩けどバス停が見つからない。
かなり余裕を持って出てきたはずなのに、気づけば出発時刻は15分前に迫っていた。
手書きの地図を片手に手当たり次第スコットランド人に空港行きのバス停はどこかと聞いても、みんな指し示す方向はバラバラ。あるいは、訛りが強すぎてまったく聞き取れない。

困り果てている時に限って謎のおばさんに数珠を売りつけられそうになるし、私の焦りを煽るように民族衣装のおじさんが奏でるバグパイプもどんどん加速していく。
このままじゃ帰れない!と本気で泣きそうになった時に、目の前をまさに乗りたかった空港行きの大型バスが過ぎていった。

これを逃したら、日本に帰れない!!

あんなに必死に走ったのは、生まれて初めてだった。
幸い一週間足らずの旅程だったので、荷物は大きなリュックサックひとつ。靴も履き慣れたスニーカーだった。
周囲の人をかき分けるように大通りを全力疾走して、やっと信号で止まったバスに追いついた。
ものすごい形相だったのか、窓を叩いた瞬間にドアが開いた。
口から血の味がするほど疾走したのは、後にも先にもこの時だけだ。

別の友人と大学の卒業旅行でヴェルサイユ宮殿に行った時は、広大な敷地で迷子になった。
入館料無料に釣られて月の第一日曜に行ったら、門の前は長蛇の列。小雨の中を40分ほど待って宮殿内を見て回り、外に出るとそこはだだっ広い緑地だった。
せっかくだからとトリアノン宮殿やプチトリアノン宮殿を目指すも、ひたすらに目に入るのは緑ばかり。
開門前はあんなに人がいたのに、宮殿の外に出るや否やびっくりするほど人気がなくて歩けば歩くほど不安になってくる。
「食料を持って行った方がいい」とゼミの先輩の助言を忠実に守った私たちはきなこ棒をむしゃむしゃ食べながら歩き通して、その日一日で27000歩を歩いた。
あの時は友だちと一緒だったから泣きはしなかったけれど。もし一人でヴェルサイユ宮殿で迷子になったら、確実に私は泣くと思う。

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↑  超迷子中に敷地内で見かけた牛。

そういえば一番最初の迷子の記憶は、小学校中学年の頃。市内の総合公園で迷子放送をされた時のことだ。
日本庭園の亀に夢中になっていたらいつのまにか家族がいなくなっていて、慌ててフラフラと公園内をさまよっていたら迷子放送でフルネームを呼ばれてしまった。
その日はクラスメイトの川上くんも公園に来ていたらしく、翌日学校でそれをからかわれた。
あまりにも悔しく情けなかったので、どうにかして川上を迷子にさせてやらなければ気が済まないと思うようになり、ある放課後に机を廊下に持ち出してこっそりと3年1組の教室のドアの上にあるクラス札に上から「3-2」と紙を貼り付けた。
これで川上も混乱するだろう、うひひと思っていたのに、川上はおろかクラスの誰からも気がつかれなかった。

悲しいことに迷子エピソードはまだまだある。
私はほかにも大学で、ペルーで、ドイツで、空港で、新宿駅の構内で、渋谷で、池袋で、北千住で、渋谷ヒカリエで、ルミネで、マルイで、そして近所で、迷子になってきた。
実は今の会社も入社してから一週間くらい経つまでは時々迷っていた。駅から徒歩7分くらいのはずなのに。
地図と道とを見比べた上で「こっちだね!」と指差して「いや逆だよ」と諭されたことも一度や二度ではない。
というか八割方、逆か垂直である。

そんな私ではあるけれど、迷子対策としていくつか心がけていることがある。
まず第一に、「駅から徒歩5分」を信じないこと。
第二に、現地集合を避けること。
第三に、早めに方向音痴であることを申告すること。

道に迷う前提ないし方向音痴を諦める方向で話を締めてしまうことを、大変遺憾に思う。
けれどこれさえ心に留めておけば、大抵のピンチは乗り越えられる(許される)気がする。

迷子になった時、本当は一葉やモヒカン族のように泣きたい。
けれど私はもう、いい大人だ。そうやすやすと泣くわけにはいかないのだ。だから泣かないための予防線は、常にしっかりと張っておきたい。
だって私はもう、大人なんですから…。

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