【読了記録】『島へ免許を取りに行く』
穂村弘氏との出会いは、大学の中央図書館でたまたま開いた『絶叫委員会』だった。
「松田のちんこは丸っこいです」とか「この花火はぐろぐろ回ります」といった彼が拾ってきた言葉やそれに対する分析がとにかくおかしくて、緩む口元を隠しながら電車でこそこそと読んだことを覚えている。
ああ、懐かしいなあ。やっぱり好きだなあ。今回再読して一番ハッとしたのは、免許を持たない人と持っている人とで見えている世界が違うという話だった。
運転免許をもたない或る知人は自動車を「色」でしか認識していない。彼は「一方通行」も知らなかった。その道が「一方通行」であることを知らなかったんじゃなくて、「一方通行」という概念自体を知らなかったのだ。「だってここ、どっち向きにも行けるじゃん」と云う。
そういえば、私も穂村氏の知人側だった。教習所に行って一方通行を教わった時の衝撃が蘇る。同じ道路なのに一方から入っていくのはOKでもう一方から入っていくのはダメなんて、まったく納得がいかなかった。その道がどこかへの近道だったら通行できない側から来る人はせっかくの近道を目の前にしながら、標識1つで侵入を拒まれていることになる。そんなもったいないことがありえるのかと衝撃だった。
そんな道路があるせいで通れる側が驕り高ぶり、通れない側が鬱屈を募らせあわや暴動勃発……なんてことになりはしないのだろうかと怖くなって、教官にくどく質問を重ねて呆れられた覚えがある。
さすがに今は一方通行の概念を理解してはいるが、車種はほとんどわからない。
それはさておき。25日は免許取得の期限日だったので、免許を取ってから読むことにしていた星野博美著『島へ免許を取りに行く』を読んだ。
星野さんは私にとって、いつでも、どんな精神状態でも読める稀有な作家の一人だ。
『銭湯の女神』『のりたまと煙突』『今日はヒョウ柄を着る日』のような日常風景を掘り下げていくエッセイも、『転がる香港に苔は生えない』『愚か者、中国をゆく』に代表される中国・香港でのドギツイ日々を活写した紀行文も身悶えするほど好きで、本屋や図書館で見かけるとあまりの嬉しさに人目をはばからず思い切りにやけてしまう。
エピソードがおもしろいのはもちろんだが、星野作品の一番の読みどころは彼女の深い内省的な姿勢にあると思う。
並々ならぬ洞察力を持っているにもかかわらず、つい感情的になって相棒や中国人と衝突したり、人間関係で憔悴したりしてしまう星野さん。理知と感情の間を行ったり来たりしながら七転八倒するさまが清々しく人間臭くて、読み終わるとしみじみと「ああ、生きよう」と力がみなぎるのだ。
そんなわけで日々の活力の源である星野さんが免許を取りに島へ行ったというタイトルを見かけた時、まさに免許に苦戦を強いられていた私は小躍りするほど嬉しかった。すぐにでも読みたいところだったがもし星野さんがなんの苦もなくスイスイ運転できていたら立ち直れなくなるくらいへこむに違いなかったので、免許を取ってから読むことにした。
免許を取って、星野さんを読む。それだけを楽しみに去年の冬から頑張ってきた。
そして7月上旬、やっと私は免許を取ったのに、うかうかしていたら10月後半になってしまった。
ようやく読み始めて、すぐに後悔した。この本には、教習中に私が喉から手が出るほど欲していた言葉が惜しみなく綴られていた。これは免許苦戦中にこそ座右に置いておくべき本だった。
思えば免許取得の道のりは、これまでの人生で一番険しかったかもしれない。教習初日から最終日まで、私は絶望的に運転に向いていないことを思い知らされながら教習所に通い続けていた。
己の運動神経やカンの鈍さが車を通すことでより増幅して感じられ、擦ったり乗り上げたり脱輪したりするたびに「どうせ私はダメ人間だあ」と投げ出したくなったこと。
教官に常に意識するよう言われた「タイヤが今どこを向いてるのか」「先を見据えた走行イメージ」をイメージしながらハンドルやウィンカー操作などの複数の作業を同時進行することができずパニックに陥ったこと。
技能練習ができないもどかしさに焦れて、練習と称してゲーセンのマリオカートに通うのが日課になり、中学生男子たちに「マリオぼっち」と陰口を叩かれたこと。それにむかっ腹を立てて時々わざとマリオの乗った車を大破させたり海に飛び込ませたこと。
教習時間の半分も経たないうちに教官が剣呑な雰囲気を醸し出し始め、クリアのハンコを押してくれないであろうことが読み取れるようになったこと。
思い出すだにもどかしく過酷な日々ではあったけれど、なかでも一番苦しかったのは、この苦しさが、できる人には理解されないことだった。
おそらく元から運転が得意だったであろう教官からは「そんなに難しいことは言っていないはずなんだけどなあ。こんなに手こずってる人、初めて見たかも」と首を捻られ、たまらず彼氏に泣きつくと彼は
「その辺のヤンキーやおっさんだってブンブン運転してるやろ?慣れてコツが掴めればすぐだって。あんた大学出てるんだから」
と慰めてきた。
「右左折」や「S字カーブとクランク」、「適切なタイミングでの正しい合図」に苦戦して、ボツを食らいまくって荒んでいた私は「勉強できればうまくいくなんてお気楽な話じゃないやい!ヤンキーにできて私にできないことなんていくらでもあるわ!」とぶちむくれ、しばらく彼を避けた。
人に会うたびに「免許持ってます?スイスイ取れました?コツは?」と尋問するのが日課になった。いきなり聞いた私も悪かったけれど、ほとんどの人が「慣れ」と答えてきて、彼ら彼女らとも疎遠になった。
そうして私は、どんどん孤独と親密になっていった。
私は悲しかったのだ。教官や彼氏、友だちまでもが運転のコツを「慣れ」の一言で片付けてしまうことが。
みんなはじめは万物に不慣れな初心者だったはずなのに。なにを「慣れればうまくいく」なんて、大抵のことに言えることをしたり顔でほざいちゃっているのだろう。
私は彼らに慣れるまでのもがき苦しんだ奮闘の日々を覚えていて欲しかった。「慣れた!今私、慣れてる!」と確証を持てた時の喜びを聞かせて欲しかった。苦しみから喜びへの橋渡しのきっかけとなった出来事を知りたかった。
「運転に慣れた」、あるいは最初から苦労なく免許を取れた人たちと苦難の連続の自分との間のものすごく深い溝は埋まる兆しがないまま、運転のコツもまったく掴めないまま乗車回数だけが一丁前に増えていき、苛立ちと焦燥が噴き出す寸前のマグマのように体内で不穏にうごめいていた。
あの時、『島へ免許を取りに行く』を読んでさえいれば、あんなにひとりマリオカートでやけっぱちに大破を繰り返すこともなかったろうに。
方向指示を出そうとしたはずがウィンドーウォッシャー液を出してしまう。
窓をいい具合に止めることができずウィンウィン上げ下げ。
S字カーブ、クランクは苦手というより、不可能の領域。「このまま行きよると、左が脱輪するよ!」と教官に言われて「わかりました!」と答えるものの、毎回脱輪。
バックの時の身体感覚とハンドル操作が噛み合わず、いつも逆方向に回してしまう。
「もし星野さんがスイスイ運転できていたら」なんて杞憂を見事にはね返す、私と似たり寄ったりの不器用っぷりで、「あ〜、そんな失敗したな」とニヤニヤした。それでいて、無力さや努力がなかなか報われないことに対する苛立ち、同期が次々にいなくなっていく寂しさなど当時の私のなかでモヤモヤとくすぶっていたものを、彼女は鮮やかに言語化してみせた。
それだけでもかなり心が救われるのに、彼女はごとう自動車学校で飼われている馬や犬とのふれあいや、五島の教官たちのふんわりした方言まで丁寧に書く。
いいなあ。私も「まだ『みきわめ』は出せん」とか「そういう問題じゃなか」とか注意されたかった。
運転で殺伐としていく気持ちを、動物たちや人のいい教習所の人たちがフォローする。
先に「この本を免許苦戦中に読むべきだった」と書いたけれど、さらに欲を言えば教習所選びの段階で出会いたかった。そしたら絶対にごとう自動車学校に行ったのに。
そして一番気になっていた、運転のコツを掴んだきっかけは「近くを見るから怖いんだ。遠くを見ろ! そうしたら怖くなくなるぞ」という言葉だった。
私もがらっぱちな教官からまったく同じアドバイスをされた途端に運転がうまくいくようになったクチだったので、とても驚いた。
「遠くを見ろ」その一言で頭と身体がすーっと一気につながっていくあの感覚。
ごちゃごちゃとぎゅうぎゅうに詰め込まれていた知識が収まるべき位置に収まっていき、頭の判断に身体がゆとりをもってついていけるような、あの感じ。
そんな一瞬の快感を星野さんと共有できた気がして、とても嬉しかった。
今では都内で運転しているという彼女を見習って、私も気合を入れて今後実家周りを走ろうと思う。いつか、来たるべき日が来たときに、ちゃんと運転できるように。
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