夫を持ち上げる
30歳の誕生日が、健康診断にぶち当たっていた。
弁当を作りながらいつものクセでつまみ食いをしそうになって、慌ててすべてを弁当箱に押し込む。
白湯を飲みながら健診の準備を整えて時計を見上げると、いつもより15分ほど早かった。
水しか摂れるものがないと、朝の時間をだいぶ持て余してしまう。
身支度を終えて夫の耳元に「おはよう」とささやくと、彼は「うう、うう」と身をよじった。
「るるちゃん、検尿ちゃんと取れた……?」と聞いてきたので「取れたよ」と答えると、彼は「よかっ…た……」とラスボスの死を聞かされて安堵した瀕死の仲間みたいな安らかな顔で、再び眠りの世界へ戻ろうとした。
「ほかに言うことないですか」と問うと、「うんち、ちゃんと取れた……? ああ、二の腕がひんやりして気持ちいい」と、すりすりと私の二の腕に頬をこすりつける。
転職先の健康診断には、前職にはなかった検便とバリウム検査が入っていたのだ。
たしかに検尿と検便は油断すると検体をうっかり流してしまいそうな危険な検査ではある。
でも、それより先に言うことあるんじゃないかい、え?
健やかに寝入った夫の頬をつまんで、私は健診先の病院に向かった。
問診票を渡すと生年月日を確認した受付のお姉さんが「あれえ? 今日お誕生日なんですか? おめでとうございまーす!」と祝ってくれて、「なんかあったっけな」と一度奥に引っ込み、「ささやかですが」とガトーフェスタハラダのラスクをくれた。
身内の夫は誕生日のことなどすっかり忘れていたというのに。
これから何かしらの検査を受けることになったら、絶対にこの病院にお世話になろうと心に誓った。
検査着に着替え、血圧、採血、視力と聴力、身長と体重の計測、心電図……と着々と検査項目をこなしていく。
身長の微増は誤差なのか、それとも職場環境の変化によって姿勢が伸びた結果なのか。
首をかしげていたら、問診に呼び出された。
健康や体力維持のために何か習慣的にやっていることはあるかと聞かれて「夫を持ち上げています」と答えると、お医者さんは「は?」と口を開けた。
なぜかと聞かれたので「高校時代からの友人も夫を持ち上げていたからです」と答えると、「えぇ……」とますます訝しそうな顔になる。
友だちがお姫様だっこに憧れを抱き、旦那さんにせがんだのは数年前。
旦那さんのちょっとしり込みした様子にムッとした彼女は、自ら夫を持ち上げてみたという。
「意外とできるものだった」という感想をふと思い出して、数か月前から私も夫を持ち上げ始めたのだ。たしかに、意外とできるものだった。
私たちは毎日ほとんど同じものを食べているはずなのに、身長だって6センチしか変わらないのに、20キロ近く体重が違う。なんでだ。
夫と生活をともにするようになってから、彼を守れる自分でありたいという思いが漠然と腹の底に渦巻くようになった。
別に私に守られるほど彼がか弱いとは思っていないけれど、万が一、崖から滑り落ちるような場面があったら「ファイトー! いっぱーつ!」と引っ張りあげられるくらいの、夫の全体重を支えられるだけの体力を、身につけておきたい。
そもそも慎重な彼が崖に近づく機会はあまりなさそうだけれど、それと脅威に対応できる力があることは別の話。
そうやって、週に3,4回ほど夫を持ち上げさせてもらうようになった。
夫に持ち上げさせてほしいと頼むと、「腰にきそう」と嫌がりながらもしぶしぶ両脇を開いてくれる。
そういえば健診では言い忘れたものの、最近うんていにもハマっている。
従姉と祖父の家に行ったときに、昔遊びまくった近所の公園に寄った。
懐かしがりながら意気揚々とうんていにぶら下がってみたら、そこから一歩も進めなかった。
片手を離して前の棒を掴もうとすると、全体重がもう片方の手に移る。
それは無理、考えただけで無理。
昔は一段飛ばしとか、デューク更家風とかふざける余裕もあったのに。
いまそんなことやったら、確実に腕が死んでしまう。
反対側にぶら下がっている従姉も同じことを悟っていたらしく、私たちは久方ぶりに自然に戻された二頭のオランウータンのように、目を見合わせたまま無言でぶらんぶらんと揺れていた。
いやひょっとしたら子どものころの感覚を取り戻せないのは私たち人間だけで、オランウータンはすぐに野生の勘を取り戻して自然に帰れるものなのかもしれない。
以来、無人の公園を見かけるとそっとうんていにぶら下がるようになった。
ともあれいよいよ最終検査、最も恐れていたバリウム検査までたどり着いた。
無味無臭のねるねるねるねのような、もったりとしたバリウムののど越しが不気味。
かつ自分のペースで好きに飲めるわけではなく「三分の一くらい、一気に飲んでください」と声をかけられたタイミングで言われた分量を飲まなければならないのは少し無理があり、もしパスができるなら来年以降はパスしてしまいたかった。
とはいえ身構えていたほどまずいわけではなく、もしもバーで頼んでこれが出てきたら味については一切言及せずに2時間くらいかけて飲み干すんだろうな、という感じの味ではある。
ちなみに花丸恵さんの旦那さんはバリウムを「意外にうまい」と味わって飲み、検査技師さんに「味わって飲まないでください」と注意されたという。その余裕、大物すぎる。
帰宅すると、顔に緊張感をみなぎらせた夫が待ち構えていた。
「誕生日おめでとう、るるちゃん。一番に祝える特権を持っていながら、俺はその権利をおしっことうんこに使ってしまった」と真顔で言い、「ごめんなさい、おめでとう」と二人で食べるにはかなり大きなホールケーキを持ってくる。
朝は水だけ、夜はホールケーキ。食の振れ幅がすごい。
その約10日後に、夫も誕生日を迎えた。
朝から先日の仕返しかと苦笑されるほど盛大に夫の誕生を祝い、ついでに彼の両脇に腕を差し伸べて身体を持ち上げ、ちょっと回した。
はにかむ夫、30歳。
これから、私たちの体力は緩やかに落ちていく。
それにどれだけ抵抗できるのかはわからないけれど、夫を持ち上げ続けて、いつかお姫様だっこができるようになったなら。
きっとそのときの私たちは、どんな危機も粉砕できる最強の夫婦になっていることだろう。