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ペルーのバスに試されて

虫でも練りこまれてるのかと思うほどに、鼻くそが黒い。

これがペルーの首都、リマに着いた日の日記の冒頭だ。
はるばる異国で鼻をほじってんじゃないよ、というツッコミはとりあえず飲み込んでいまは私の話を聞いてほしい。
鼻くそが、びっくりするほど黒かったのだ。
私が思うに原因は十中八九、排気ガス。

大学四年生の夏休み、大学の選択科目で「スペイン語圏でホームステイをして語学学校に通って単位をもらおう☆」という授業を取ったときのこと。
リマに着いた私と友だちは、日本では見られない光景に呆然と立ち尽くしていた。
どう見ても四車線の大通りが、運転手の意思で無理くり六車線として使われている。
横入りも車線変更も気の向くまま、当然ほうぼうでけたたましくクラクションが鳴り響いている。
そして車のお尻からおならのように排出される、黒い黒い排気ガス。
具合が悪くなりそうな光景に、ここで一か月暮らすなんて本当にできるのだろうかと、ちょっと気が遠くなった。

とはいえ来てしまったからには、どうにか暮らしていくしかない。
リマに着いた初日、ホストマザーのローサが私たちにバスの乗り方をレクチャーしつつ、語学学校に一緒に行って入学手続きに付き添ってくれることになった。

バス停に着くと、ローサは鋭い目つきで車が走ってくる先をひたと見据えた。
やがておんぼろ以外の表現が見つからないようなバスがかなりのスピードで走ってくる。開いたドアから身を乗り出すようにして立っている男性が、「オバロ・ミラフローレス!!!オバロ・ミラフローレス!!!」と行き先をがなり立てている。
シュッと片手を上げて、ローサがバスを止める。颯爽と乗り込む彼女に慌てて続くと、ドア近くに立っていた男性にどこまで行くのかと尋ねられた。
「アンガモス」とローサが行き先を答えてくれ、それに頷くと1 sol(ソル)を求められる。1 solを払い乗車券を受け取るや否や、バスはぶるると唸って走り出した。

ローサの家から語学学校までは、バスで2、30分ほどだった。
語学学校で学力テストと入学手続きを済ませ、「帰りはここからベンナビーデス通りを走るバスに乗って、うちの前の通りで降りるの」とローサの解説を聞きながら再びバスに乗る。
今度のバスは行きのバスよりもこぢんまりしていて、激しく揺れるバスだった。
日本のように外観やサイズが統一されているわけではないらしい。

まずはバスの乗務員に行き先を聞く、あるいは路線名を確認する。
行きたい方向のバスだったら、「自分を当ててほしくてたまらないハーマイオニー」並みの猛烈なアピールしながらバスに駆け寄る。
乗務員に自分の降りる先を告げ、言われた運賃を払う。座席についたあとで集金に来るパターンもあるから、そこは臨機応変に。
降りる場所が近づいてきたら、なるべく降車口付近へ。
降り場に着いたら素早く降りる。
前に人が立っていたら「Nos bajamos(降ります)」と声をかけて通路を通らせてもらう。

ローサの言葉を必死に頭に叩き込んでいると、彼女はウインクして親指を立てた。
「さあ、明日からは二人で通学するのよ!Animo(頑張れ)!」

こうして、ほぼ毎日バスと戦う日々に突入した。
ぬばたまの鼻くそにおののいた私たちは、マスクをつけて登校することにした。
ローサと一緒に乗ったときにはバスは比較的空いていたけれど、実際に私たちが学校に向かう時間は朝の通勤&通学ラッシュのようだった。
昨日のローサの真似をしてどうにかバスに乗り込むと、すぐそばの席に座っていた男性が腰を浮かした。

「僕の席、座る?」

「いえいえ、大丈夫です」
そう断ると男性は「えぇ、本当に?」と心配そうな目つきで言った。
どう見ても私たちの年齢の二倍くらいはお年を召していそうなのに、なぜ私に譲ってくれようとするんだろう。
「本当に、本当に大丈夫ですから」
そんな押し問答を何度か繰り返したあとに、彼はまだ譲りたそうにチラチラこちらを見ながらしぶしぶ椅子に尻を沈めた。
ふう、なんとか断れた。
ホッと胸をなでおろすと、通路を挟んだところに座っていた高齢の女性と目が合った。
にっこりと口角を上げて、彼女は自分の膝を指した。

私のひざに、荷物置く?

どうして。
親切が斬新すぎて全然ついていけないんだけど。
断ったものの、女性はかなり粘り強かった。

正直私は、彼らの親切をそのまま親切として受け止めていいものか迷っていた。
以前読んだ旅行本によればリマはそこそこに治安が悪いらしく、スリや置き引きに注意するようにと書かれていたからだ。
しかし高齢の女性は、善意100%の微笑みを浮かべて自分の膝をぺしぺし叩いている。

私が渡した瞬間に「やーい、騙されやがった!!」とかばんを引っ掴んで爆走する女性を思い浮かべる。
受け取ったかばんから、貴重品が抜き去られているのを想像する。

いや、このおばあちゃんはそんな悪いことをするようには見えないんだけど……でも……。
人の厚意を無下にしたくはないけれど、信じた善意が偽物だったときのショックも大きい。

悩んだ末に、私は女性に気づかれないように自分の財布と携帯をずぼんのポケットに移し、かばんを女性に渡した。
彼女は大事そうにかばんを抱え、しばらくして私が降車のブザーを鳴らすとにっこりかばんを両手で手渡してくれた。
純粋な善意の人だったのだ。

海外旅行で一番疲れるのは、相手がいい人かずるい人かを見極めることなのかもしれない。
親切な人に疑いの目を向けてしまった罪悪感は、べっとりと身体に染みついた。

次の日の朝、前日とは違う人が席を譲ってくれようとした。
自分の膝に荷物を置かないかと申し出てくれる人もいた。ありがたく、お言葉に甘える。
そのことをFacebookに書くと、それを読んだペルー留学経験者のスペイン語の先生から「マスク姿はめちゃくちゃ目立つから、相当具合が悪い二人組だと思われているのでは」とコメントが来た。
時はコロナが流行るだいぶ前の2017年。たしかに、ペルーに着いてからマスクをした人を一人も見ていなかった。
健康な私たちは鼻の穴を守ることと周囲から過剰に気遣われることを天秤にかけ、その翌日からマスクをせずにバスに乗った。
席を譲ろうとしたり膝に荷物を置こうと手招きしてくれる人はぱったりと現れなくなり、やはりマスクが原因だったのだと知る。

しかし行きずりの相手への対応を試される機会は、その後何度も訪れた。
バスに唐突に乗り込んでくる菓子売りのおばちゃんから菓子を買うか否か。
バスに突然乗り込みギターをかき鳴らして路上ライブならぬバス内ライブをする若者たちに、投げ銭をするか否か。
そして日ごとに変わるバス代にどう向き合うか。

そう。バスの料金が、日によって違ったのである。
初日にローサと乗ったときには、行きも帰りもぴったり1 sol(たしか35円くらい)だった。
しかし別の日にバスに乗ると、乗務員に「1.2 sol」と告げられた。
「1.2 sol?」と聞き返すと、「そう、1.2 sol」と揺るぎない口調で繰り返される。
日本円で考えれば35円と42円は、駄菓子屋で買うヤングドーナツとスーパーの駄菓子コーナーで買うヤングドーナツの値段くらいの、まあ誤差の範囲ではある。
でも、これ、バスなんだよな……。
区画によって運賃が決められている日本のバスや電車などの公共交通機関に慣れきっていた私は、戸惑いながら足りない分を差し出した。
しかしそれは、まだほんの序の口だった。

「1.5 sol」
「1.8 sol」
「2 sol」

2 sol!!初日の二倍ですって!?
日ごとに値上げしているのかと思いきや、突然1 solに戻る。
乗務員がぼったくっている雰囲気ではない。「◯◯までお願いします」に対し、彼は常に事務的に運賃を即答する。
私が知らない、気づいていないだけで、明確に運賃規定が定められているのだろう。

走行距離や経由地によるのか。
バス会社によるのか。
乗車した時間帯やお天気によるのか。
バスの清潔さなのか。
乗務員の集金のタイミングが乗車時か、乗車中か。
何らかの事情で値上げと値下げが日替わりでおこなわれたのか。

日記に乗車券を挟み込みながらいろいろ予測を立ててみたものの、「これだ!」というものにはたどり着けない。結局もどかしさを抱えたまま、滞在期間が終わってしまった。
ひょっとしたら、家の近くのバス停がちょうどメーターの上がる上がらないの瀬戸際なのかもしれない。
そのくらいしか、納得のいく理屈が見つけられない。

「バスの料金、日ごとに違うよね?どうしてか知ってる?」
滞在から数日経ったころ、ホストマザーのローサと、クラスメイトで半年ほどペルーに住んでいるスウェーデン人のジョナスに尋ねたことがある。
二人とも、見事なまでにキョトンとしていた。

「車掌さんが運賃言ってくれるじゃない?それに従えばいいんじゃないの?」

車掌への信頼が厚すぎる。
日ごとに違うの!同じ場所から乗っているのに、昨日は1 solだったのに、今日は1.5 solなの!と訴えても、そんなこと今まで気にしたことないからわからないの一点張りだ。嘘でしょう?ヤングドーナツをどこで買うか、気にしたことないタイプ?
私がみみっちすぎるのか、二人があまりに無垢なのか。

私の手元にはこの一か月間に乗った45枚の乗車券が残り、「なんで運賃違ったんだろうな」という疑問とともに長くコレクションされることとなった。
ふと思い立って乗車券を運賃ごとに整理し、グラフにしてみる。

1 solの乗車券、17枚
1.2 ~3.5 sol

最多は1 sol、38%。次いで1.5 sol、11%。
1 sol以外の運賃が細かく刻まれすぎていて、どういうことなのかやっぱりわからない。
朝は比較的1 solが多かった気もするけれど、ぱっきり「朝1 sol、帰り1.2〜2.5 sol」と分かれているわけでもない。
ちなみに3 solや3.5 solは、ちょっと遠出した日の運賃だ。

「ペルー バス」で検索してみても、時刻表や運賃表は特に見つけられなかった。出てくるのはマチュピチュやナスカへのツアーバスの案内ばかり。日常的にバスに乗っている人たちは、私たちのように「○○に行きますか?」「いくらですか?」と毎回やり取りを交わしているのかもしれない。

乗客同士の譲り合い、バス内の商い、ライブ、そして日替わりの運賃。
人を疑って後悔したり、突然のライブに困惑したりもしたけれど。
あれほどバスを観察し、運賃の差に思いを巡らせた日はなかった。
謎が解けるまでは捨てるまいと溜め込んでいた乗車券は、いまも見るたびさまざまな思い出を呼び起こしてくれる。

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