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「楽しい社会」実現と「自律社会」創造

自律社会元年は比叡山未来会議で幕開け

自律社会元年が幕開けし、早くも1ヶ月が経ちました。みなさん、自律社会の兆しを既に見つけたでしょうか?ヒューマンルネッサンス研究所では、一月十四日に比叡山のお山の上、延暦寺会館にて、昨年度に続いて「比叡山未来会議2025」を開催しました。そこでは、もう、SINIC理論の自律社会から自然社会への道筋、兆しが、熱く議論され未来をたぐり寄せていました。

HRI主催 比叡山未来会議2025

日本2025年のテーマ宣言

 さて、私としては珍しく政治の話しに少しだけ入ります。最初に宣言しますが、私は政治活動とは無縁、支持政党もありません。政治批判をしたいのでもありません。ただ、よりよい未来に向かうことだけを考えています。
 ちょうど、このコラムの投稿一週間前、通常国会が召集されて、石破首相が初めての施政方針演説を行いました。じつは、私はいつになくこの内容に注目していました。

朝日新聞 2025年1月25日朝刊1面

 歴代首相の中には、「郵政民営化」や「憲法改正」など、この場で一発かます人もいましたが、今回はそういう目玉は無さそうです。また、彼の国の大統領のような、奇をてらう暴論宣言もないだろうとは思っていました。
 けれど、彼の最初の施政方針演説となる今回の演説で、彼の人柄や本音を、自分の言葉にして発するのではないかと期待していました。
 フタを開けると、期待通りにありました。「楽しい日本」です。かねてより、石破さんは「楽しい日本」という言葉を使っていたのです。私は、それが気になっていたのです。そこの部分には共感していました。

政治の目的は「楽しい日本」づくり

 翌日の新聞紙面で、私は演説全文をすみからすみまで熟読しました。その感想は、従来路線の継承施策も多く、読み方次第、とらえ方次第で、陳腐にも見えるし、チャレンジングにも見える、そんな印象でした。「令和の日本列島改造」という言葉も、田中角栄さんの首相時代を知らない人の方がマジョリティの現在、たぶん、国民には刺さらない失敗作だったのではないでしょうか。

「日本列島改造論」(1972年)

 しかし、あの「令和の日本列島改造」とか「地方創生2.0」という言葉にばかり目を付けるのは間違いでしょう。それらは、「楽しい日本」を実現するためのHOW(方法論)であって、WHAT(目的)ではないということを、首相自身も演説中も明言していましたから。
 だから、それを揶揄している記事などは、記者の大いなる力量不足と感じました。目的は「楽しい日本」の創造なのです。脳天気さだけには自信のある私は、諸手を挙げて賛成です。よくぞ言ったと、心の中で快哉を叫ぶ喝采ものでした。

「楽しい日本」と言えない、見られない日本

 しかし、案の定というか、残念というか、翌日以降の記事や論説では、「楽しい日本」という言葉はマスメディア上では不評で、冷ややかに批判するような酷評記事ばかりでした。だから、マスメディアはだめなんだとも思いました。
 それらの酷評の根拠となっていたのは、「今の日本の実情を直視すれば、楽しいなんて言ってる場合か!?」というものでした。困っている人たちをどうする?経済低迷の打開をどうする?Gゼロ時代の外交をどうする?難問山積の中で、一国の首相が「楽しい日本」とは何事か!という論調です。
 また、海外の一通りの有力紙もウェブで眺めてみたのですが、日本の首相の施政方針演説を記事にしているものは一つもありませんでした。アメリカ大統領の一般教書演説の翌日には、日本、世界のメディアが飛びついて騒ぎ立てるのに。
 私がサーチした中では、翌日の海外紙の日本記事はNew York Times一紙だけでした。なんと、

” MeToo Outrage Leaves Japanese Broadcaster Without a Single Advertiser”
「MeToo」の怒りにより、日本の放送局で広告主が1社もなくなる。

2025 Jan 24 The New York Times

という見出しで、件の記事が掲載されていました。情けないことです。日本は楽しい国として見られていないのです。
 日本は、円高で外国人観光客にとって、なんでも安くて安全で安心な楽しい国という「安」ポジションに安住して、インバウンド経済なんて言って満足していてはダメなんだと思うのです。なんとしても、”Leaves Japanese People Without a single citizen”にならないように。だから、やはり「楽しい日本」を、私は支持します。

三度目の日本と「自律社会」

 石破首相は「国づくりの基本軸」として、目指すべき社会を「楽しい日本」としています。
 年末の閣議でも「地方創生2.0は単なる地方の活性化策ではございません。日本全体の活力を取り戻す経済政策でありますし、国民の多様な幸せ、楽しい地方を実現する社会政策であります」と明言していました。
 私は、かなりこの彼の明言に期待していました。この背景には、堺屋太一さんの著書『三度目の日本』の社会発展のストーリーラインがあります。

毎日文庫(2017年)

 一度目の日本は明治維新で富国強兵「強い日本」、二度目は敗戦後の経済成長「豊かな日本」、そして三度目こそ、国民一人ひとりの幸せを実現する「楽しい日本」というステップです。
 ダブルスタンダートの団塊の世代が嫌いな私です。しかし、その言葉をつくった堺屋さんの発言や著書のフォローを続けてきました。数年前に『団塊の後』という書籍で「三度目の日本」を読み、当時は、これこそSINIC理論が予測する、一人ひとりが生きる歓びを感じる「最適化社会」から、自律分散型の「自律社会」への道筋だと確信していました。明記された2026年という時期の符合にも、とても驚いたことを思い出します。

ユニバースからプルリバース、「楽しい日本」こそ未来へのみち

 今回の施政方針演説に対するマスメディアの論説記事には、本当に残念な思いでした。それぞれの主張はわかります。楽しむ前に解決すべき課題山積なのは誰でも承知しています。そういう中で、楽天的に前向きに視線を向けて「楽しい社会」を目指すことは、それほどに悪いことでしょうか?悲観的に足下に目線を落としていることばかりが善ではないと思うのです。前を向くからこそ見えてくる光があると思うのです。
 石破首相は、この施政方針演説の冒頭の国づくりの基軸について、かなり思い入れを強く持って、自身で文面を書き直したということを首相周辺の談話として知りました。もう少し楽天的な表情をしてほしいのも確かですが、ぜひとも、「楽しい日本」を「都市」か「地方」かの二項対立から一つの正解に向かう問題解決でなく、全土を包んで一人ひとりの幸せにつながる多元的な問いを立てながら解く政治で実現してほしいし、一人の国民として、それを支えたくなります。それこそが、ユニバースからプルリバースへの大転換なのですから。

コンヴィヴィアルな社会を目指そう

 ところで、海外紙にはこの演説の記事が無かったのですが、私は日本の新聞の英字版では「楽しい日本」をどのように表現しているのかに興味があり、確認してみました。
 “Pleasant Japan”, “Joyful Japan”, ”fun Japan”という記事表記が見つかりました。なんだかなあ、違うんだよなあ、と純日本人の私の英語感覚からは違和感が募りました。私だったら、せめて”Playful Japan” くらいのセンスを持ってほしい。自分だったら”Convivial Japan”と表現するのになあと。
 そうです「共に愉しい」というコンヴィヴィアルです。単におもしろおかしい日本ではないのです。” fun Japan” で伝わると思いますか?

筆者作成資料より

 もっと、一人ひとりが生き生きと、そして社会が生き生きとする、それが、私が想像する「楽しい日本」社会だからです。私たちヒューマンルネッサンス研究所は、こういう未来を発信し続け、実現の一端を担っていきたいのです。
 オムロンでは、かつて「明日はもっとおもしろい」というスローガンを掲げていました。いつの間にか消えてしまったのが残念ですが、そういう姿勢で愉しさをつくっていきたい。発信していきたいのです。
 そうすれば、いつの日か、比叡山未来会議が、ダボス会議やドバイ・フューチャー・カンファレンスと並ぶ、世界3大未来会議になるのではと妄想を広げてしまいます。

ヒューマンルネッサンス研究所
エグゼクティブ・フェロー 中間 真一


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