<ルッキズムと「SDGs」>フィジー島の「ミスコンテスト」の審査不正問題(「インクルーシブ(inclusive)」、「ダイバーシティ」の実現は、本当にできるのか?)
フィジー島の現地テレビニュースで、
・フィジー島の「ミスコンテスト」の審査不正問題
を、かなり大きく取り上げていた。
本来の「SDGs」の意味と、いろいろと関係の深い深刻な問題をいろいろと含んでいるので、それについて考えていこうと思う。
(今回のテーマにおける本来の「SDGs」の意味)
・「インクルーシブ(inclusive)」、「ダイバーシティ」の実現
https://sdgs.kodansha.co.jp/news/knowledge/42229/
上に書いてあるような説明文が、
・啓蒙思想である「SDGs」
というやつで、とりあえず、「やりたい事」の目標が書いてあるだけです。
このままだと、「机上の空論」になってしまったり、「何か私達は善人っぽい事を、意識高い系としてやってみたいだけな人達」になってしまう。
自分は、中の人が、辞典の校正をしている辞典学者なので、「机上の空論」と、「現実に起きてくるであろう問題点」は、きちんと分けて、しっかりと考えなければいけない。
もともと、長い世界の歴史の中で、「啓蒙思想」というタイプの思想教育は、結構、怖い側面を持っていて、「たとえ、間違っていたとしても、「啓蒙思想」に従わなかった人物は、「全体」から集団リンチを受ける」(いわゆる、最終的に、「全体主義」を形成していく、1番やってはいけない行動パターン。要するに、形や思想の内容は違っていても、「ヒトラーのナチズム」と同じような恐ろしい社会を形成します。現在の啓蒙思想である「SDGs」が、「全体主義」にならないように祈る)
結果、「みんな怖がって発言できなくなっていく」社会を形成します。
こういう怖い社会現象の事を、「予定調和」や「同調圧力」と言います。
自分は、かなり珍しいタイプの人間なので、「予定調和」や「同調圧力」なんかを全く恐れない人物で、「思考のみが存在する」という行動パターンを取るので、ほとんどの場合、「多数派に属さず、独自論調でどんどん進んでいくだけで、誰もついてこなくても、たった1人だけでも前進を続ける」ような行動パターンしか取らない人物なので、理解されるのが、1000年後とかになるタイプの人間です。
昭和の戦中には、「隣組制度」というやつがあって、「国家の方針に逆らって行動している人物がいたら、密告すると、国が食べ物や何かを少しくれた」
いわゆる、「キリストを少額のお金で売ったユダ」のような行動パターンを国土のほぼ全員がするように、国家に強制されていた時代でした。
その最終結果は、「全員が迎合し、他人の調子を合わせるだけの馬鹿ばかりになってしまい、正しい事を正しいと言えずに、結局、日本は大量の戦争の血を流したあげくに敗戦した」
海外では、特に、中国のような共産主義や、ロシアのような社会主義では、「個人の意見」を発言する権利すら存在していないので、もっと最悪な状態になっていき、中世のロシアでは、それでも、「知識のみに準じて考え発言する」ような人達を、「インテリゲンツィヤ」と呼んでいた。
結局、当時のロシアの「インテリゲンツィヤ」は、「思考するだけの人」のような変な状態になっていってしまって、最後は、変人扱いされるようになっていった。
・知識人(たくさんの事を「覚えている」だけの人達)
・教養人(たくさんの事を「覚えている」だけの人達)
・「インテリゲンツィヤ」(ロシアで社会主義や国家の言いなりにならず、「純粋、純然に知識のみを追求し、知識や思考を楽しむ」人達)
などのように、似ているが、性質はだいぶ違う。
日本の場合には、東京大学生がなぜか?優遇されるように、「覚えた事の優劣を競うペーパーテストのみを重視し、"勝ち"を判定する狂ったシステム」をなぜか?採用しているので、
・「覚えた量が多い人が勝ち」(間違っていても構わないので、国や学校や社会が「覚えろ」と言っている内容だけ覚えると、なぜか?「偉い」と評価される変なシステム)
というかなり狂った基準で動いている。
現在、「AI」の時代になってしまって、「覚える」事は意味をほとんど成さなくなってしまい、「AIが、得意な、ビッグデータで覚えた事を言う」のは、機械でも何でもむしろ簡単にできるので、「AI以降の社会」においては、「人間にしかできない、思考する能力」を鍛えた人が、「本当に賢い人」になった。
もう、昭和の時代のように、「ペーパーテストで覚えた量が多ければ、"勝ち"。「覚えさせられた内容」が間違っていたとしても、それを修正できる思考能力は持っていなくても、優秀と評価する」ような狂った評価システムは、もう役に立たなくなった。
(2024年フィジー島の「ミスコンテスト」の審査不正問題事件の内容)
(「ミスフィジー」優勝5日ぶりに翻意…背後に夫の審査委員論争まで)
https://news.yahoo.co.jp/articles/8251bee443050d2bc1265fdc2ab84467bcb126c9
((BBC)2024年フィジー島の「ミスコンテスト」の審査不正問題事件の全容)
https://www.bbc.com/news/articles/cn7lnny4y0mo
今回の2024年フィジー島の「ミスコンテスト」の審査不正問題事件では、優勝者が決まったのに、スポンサーだった不動産開発会社「Lux Projects」関係者の人物に、優勝がすり替えられて、再発表された。
背後関係の不正を調査した結果、「再び、元の優勝者が優勝に選ばれて戻った」
という事があったのですが、この間に、ネット炎上して、いろいろな「疑惑」と「議論」が巻き起こって、「正しいミスコンテストの本来のあり方とは何か?」などの議論に発展した。
(本来の「ミスコンテスト」の審査に必要な要素)
本来の「ミスコンテスト」の審査に必要な要素は、
・容姿の良さ
・スタイル
・立ち居振る舞い
・その国の伝統的な文化的価値観を理解しているか
など、かなりの複数の要因で評価と審査されるはずなのに、現在の「ミスコンテスト」の審査のほとんどは、
・資本主義とスポンサー、CM契約などが優先され、不正に結果が決まる事が多くなっている。
・そのために、ほぼ「容姿」だけしか評価されていない。
・さらに、なぜか?「アメリカ受けしやすい、アメリカ人に好まれる容姿の人物」しか受賞が不可能であるなど、かなりの不正が行われている。
ネットのニュース記事では書いていないが、フィジー島の現地テレビニュースでは、「SDGs」として、必ず議論しなければいけない大事な話題について発言していた。
(フィジー島の現地テレビニュースで言っていた事)(大体、次のような内容を話していた)
『「美の感覚」の文化は、世界各国の文化で別でかなり異なっています。
ポリネシアの多くの国では、「太っている」事は富の象徴として「美しい」と感じる文化がある。
フィジー、トンガ、サモア、タヒチ、ナウルなどの国では、いずれも、「ふくよかな女性が美人」と感じる文化がある。
しかし、「ミスコンテストの世界大会」では、これらのように、
・世界各国の文化でだいぶ異なっている美意識
は、まったく考慮や評価されずに、欧米の美意識を基準にしている。
だから、我々のような「フィジー島ミスコンテスト優勝者」が、世界大会に出たとしても、全く勝てないという不平等さを生んでいる。
本来の「フィジー島ミスコンテスト」というのは、「CMスポンサーなどの起用を重視するあまり容姿だけ欧米受けすればいい」という間違った基準では判定せず、「フィジー島の伝統文化の理解」なども評価や判定の対象にしているので、そうなると、さらに世界大会には出場できなくなる』
というように、
・「SDGs」で本来1番考慮しなければいけない、「インクルーシブ(inclusive)」、「ダイバーシティ」という事が、全く考慮されていない「八百長」のような事が成されてしまっている悪い慣例があるようです。
(ルッキズムと「SDGs」)
上の議論の段階でも、形式だけの現在の「SDGs」は、かなり狂っている事がわかるのだが、
・そもそも、「ルッキズム」自体が、「SDGs」違反なので、「ミスコンテスト」自体が「SDGs」違反
なようです。
といっても、
・文化的美的感覚の文化の継続
も大切な事は、
・本当の大和撫子の和装美人と、おしとやかな立ち居振る舞いの文化のある日本
を考えればわかる通り、「和装美人ミスコンテスト」が、本当に、「SDGs」違反なのか?は考えもので違う気がする。
フィジー島の人達が、「自分達の美意識では、絶対に、世界大会では優勝できない」と嘆いているような議論のラインが正しいようで、本当に平等に活躍できる社会の実現の議論で、本気で必要な考えなければいけない議論のようです。
(「SDGs」は、そもそも正しい考え方なのか?)
(「SDGs」の怖さ。「全員平等」、「みんな同じ」が安心という社会が、「共産主義」、「社会主義」、「全体主義」の構成国民として、「みんな同じで扱いやすい国民である」)
一方で、「ありとあらゆる思考」のみを重視するのが自分の発想なので、1つの結論の逆側も考えなければいけない。
辞典学者が見ているのは、
・「SDGs」肯定派
・「SDGs」否定派
などの両サイドの意見や、いろいろな意見の全体のフローチャートの線のようなものを俯瞰する視点です。
こういった「肯定派」、「否定派」の両極端な意見の両方に足を突っ込んでいる立場から述べるのが、辞典学者の自分の立場なので、しばしば誤解を生む。(大抵は、相手側の意見も書いているので、どちら側からも「敵」に見える危険な立場にある事が多いが、両サイドの意見を両方知っているので、より深い思考と議論ができる)
という事で、逆側からの意見も考えて書くと、
・「SDGs」の怖さ。「全員平等」、「みんな同じ」が安心という社会が、「共産主義」、「社会主義」、「全体主義」の構成国民として、「みんな同じで扱いやすい国民である」
というやつがあって、そもそも、
・「SDGs」なのではなくて、「共産主義」、「社会主義」、「全体主義」を作るのに、国民達を従順で扱いやすい人間達に思考改造する目的のプログラムの実施
というのが成されているのではないか?という疑惑がある。
例えば、中国では、「同性愛対策」の学校の手法のやり方では、「私は肉体が男性だがスカートをはきたい。女子トイレに入りたい」みたいな個人の自由を許さずに、「全員、ジャージ登校にする」みたいな対応をします。
何でも、「リベラル」な自由主義にした日本の学校の方式(男性でもスカートはいて登校してもOK)とは違う方法で、スマートに解決している。(というか、日本のやった方式は、「昭和のオタクのブルマがいい!」というフェチズムを学校の先生が採用しているだけで、「スカートがいい!」ではなくて、「全員、ジャージ登校にする」で良かったのではないか?多くの普通の女子学生の通学の悩みは、「スカートと痴漢と盗撮」なわけなので、「ジャージ登校」可の学校も多い。昭和ではない、最近の学校が、「ブルマ廃止」にして、「女性も全員ズボンジャージにした」ように。「なりたい私になる」を応援!が、「SDGs」なのだったら、「ミリタリーマニアが、軍服を着て登校してもいい」はずです)
一方で、こういった中国のような手法のやり方は、「個人の権利を存在させないように、徐々に、「全員同じが正しい事だ」と思想教育を浸透させていく怖い手法」で、最終的には、「全員、ジャージ登校にして全部、誰でも見た目は同じ。全部のトイレは男女共用トイレしか存在しない世の中を作る」みたいにすると、
・「全員平等」、「みんな同じ」が安心という社会が、「共産主義」、「社会主義」、「全体主義」の構成国民として、「みんな同じで扱いやすい国民である」
ように思考改造できるように、徐々に社会浸透させていくやり方がある。
「みんな同じで扱いやすい国民」というのは、「平等」の意味ではなくて、「人間をロボットや物として扱う」という意味です。
「共産主義」、「社会主義」、「全体主義」の構成国民や、「ディストピア(管理社会)」を作るにはそういう思想を徐々に浸透させていき、気がついた時には、「疑問すら感じない」ように人の思考が内側から書き換わってしまっている。
「SDGs」の発想の出発点がどこから出た話なのか?を調査しない事には、これらの考え方については、鵜呑みで全部正しいなんて判断はできない。
それなのに、
・「SDGs」は強制である。
・「コンプライアンス」は強制である。
ような世の中の流れになっている所に、ヒトラーのナチズム時代の「全体主義(個人が意見を言ってはいけない。「個人の自由」が存在していない社会構築へ突き進む)」のような恐怖を感じる。
今回、書いた話題は、いろいろと考えさせられる箇所がたくさんあった。
要するに、辞典学者の自分が見ている世界は、「いろいろな人達の言う意見」を肯定派、否定派の意見など全部並べて、場合によっては、「フローチャートの線」のようなつながりでつながって把握している図のようなものを、「全体を俯瞰して観察して見ている」ような視点になります。
多くの人達が見ている世界は、「自分は賛成派だから」みたいな、「自分側の視点でしか物事を見ない」わけですが、辞典学者はそういう事はしてはいけない。
それで、自分のような中立の視点から、「全体を俯瞰して観察して見る」と、いろいろな事に気がつく事ができ、問題点がより浮き彫りになる。
本来、主に、「ディベート(討論)」のあるヨーロッパでは、自分のような「両サイドの意見」を自分自身の言葉で考えて述べるという「ディベートのトレーニング」というのが、よく行われる。
(ヨーロッパの「ディベート(討論)」の授業)
ヨーロッパの「ディベート(討論)」の授業では、クラスの半分ずつを、「賛成派」、「反対派」に、「生徒の本来の意見には関係なく」分けて、まず討論させてから、今度は、全部を逆側のチームに組み直してから、「逆側の人達の意見を考えさせる」
こうやって、「両者の意見」を「自分自身の頭で考えさせる」という、「ディベート(討論)」の授業を行う。
だから、討論をした時に、ヨーロッパの人達は、より深い視点から考えられる。
日本が狂っているのは、そういうプロセスを全く踏んでいないのに、
・「SDGs」は強制です。
・「コンプライアンス」は強制です。
のように、なぜか?やっているので、「かなり薄っぺらい考えの人達しか脳が作られずに、しかも、「全体」が決めた意見に反対意見を言った場合に、例え、それが正しくても、「全体」から集団リンチを受ける」という、昭和の悪い「隣組制度」という「ディストピア(国による国民管理社会)」の名残が残っている。
(まとめ)
(1) 「インクルーシブ社会(inclusive)」(障がいの有無や国籍、年齢、性別などに関係なく、違いを認め合い、共生していくことを目指す社会。名詞形でインクルージョン(inclusion)と表記される事がある)
(2) 「エクスクルーシブ(exclusive)」(「排除的な、排他的な」社会。主に、20世紀の資本主義が効率性と合理性を追求し最大限の収益を出せるようにするための手法で、「障がい者」などを社会から排除して効率的に業務をこなせるようにしていた社会の仕組み)
現実問題として、過去に、「理想論」では、「インクルーシブ社会(inclusive)」を何度もやってみようとしたが、結局、「社会コスト」的に成り立たせる事が不可能だった。
「SDGs」が言われるようになってから、日本政府は、「渋沢栄一型資本主義(「障がい者」を社会全体の負担で守ろうという理想論)」を実現させるぞ!という強制方針を打ち出しているが、過去に、ドイツがこれをやろうとして、結局、「社会コスト」的に成り立たせる事が不可能な事がわかり断念した。
これを成り立たせるには、下に書いているような所にのみ、強制的に、「インクルーシブ社会税」のような税金を作る以外には、そもそも不可能です。
((NHK、2021年12月27日の段階のニュース)世界の上位1%の富裕層だけで、世界全体の4割近くの個人資産を保有している)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211227/k10013406141000.html
・「2022年頃の段階で、世界の上位1%の富裕層だけで、世界全体の4割の富を保有している」
わけですから、そこから徴収しない事には成り立たない。
この発想の事を、本来は、「ノブレス・オブリージュ」と言って、「富める人の責任」という。
「富裕層が富裕層でいられるのは、本来、やらなければいけない社会の土台部分をやってくれている貧民層が支えているからだ」というのを、強制的に理解させる事です。
1番わかりやすかったのが、最近のコロナ禍の時に、ヨーロッパでは、「1番危険な業務であった、病院内のゴミ捨て処理を支えていたのが、貧民層の黒人の人達が、この業務に命がけで当たっていた」ので、成り立っていた社会でした。
このテーマを、風刺画家の「バンクシー」が絵を描いていた。
((wikipedia)ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige))
https://ja.wikipedia.org/wiki/ノブレス・オブリージュ
「ノブレス・オブリージュ」の無い貴族は、貴族とは呼べない。という感じの貴族のプライドの話です。
「汚い貴族」というのは、「金で人をこき使うだけで、貧民層は使い捨てですり切れて死ぬようにこき使う」というやり方をするので、そのような下品な貴族にならないような、貴族教育として、「ノブレス・オブリージュ」という思想がある。
しかし、資本主義の台頭で、こういった「貴族」ではない、ただの一般人達が富裕層になるにつれて、社会が崩壊していく流れを作ったというのが現状です。
・「2022年頃の段階で、世界の上位1%の富裕層だけで、世界全体の4割の富を保有している」
ので、ここに手を付けないで社会問題の解決は不可能です。
にも関わらず、現在、「日本崩壊シナリオ」をやると言っていて、「高齢者からも、医療費3割負担を取る」と言っている。
かつて、ドイツが、「理想論」では、「インクルーシブ社会(inclusive)」を何度もやってみようとしたが、結局、「社会コスト」的に成り立たせる事が不可能だった事がわかり、国家崩壊しそうな所にまで、国民経済社会が崩壊した事があったが、今度は、歴史から学習しない日本政府が、また同じ失敗を積極的にやると言っているので、「日本崩壊シナリオ」をやると言っている。
((NHK、2024年9月13日)政府 新たな「高齢社会対策大綱」医療費3割負担の対象拡大検討)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240913/k10014580891000.html
(3) 「ダイバーシティ(「多様性」社会)」
組織に多様な人材が存在している状態で、いろいろな立場からの意見を積極的に言う社会を構築する事で、より問題点の少ない「ディベート」ができるというやり方。
ただ、「ディベート」の文化が無い日本では、「ディベート」の仕方も知らず、「ディベート」教育も、「みんな仲良く議論しましょうね」みたいな、幼稚園社会を大人全体にも広げようという感じなので、「ダイバーシティ(「多様性」社会)」は、日本では、現実問題として、実現不可能でしょう。
自分のように、ギャンギャン好き勝手に発言できる位で無いと、「ダイバーシティ(「多様性」社会)」は実現できません。
なぜか?日本では、
・「ダイバーシティ(「多様性」社会)」の実現の為に、「全員が我慢して意見を言わないようにしよう。多様性を尊重してあげよう。みんなで我慢しよう」という、本来とは逆のかなり狂った事をやっている。
「異なる立場の人が積極的に意見を言える社会」の事が、本来の「ダイバーシティ(「多様性」社会)」です。
・「車椅子」の人達が、「本当は、このスロープの角度だと、もの凄い斜面の速度が出てしまって、先の道路にかなりの速度で突っ込んでしまい、実は、交通事故になりやすいから直して欲しい」とかを気を使って発言できない。とか、
・「授乳する女性の立場」から物事を言えないので、「授乳する女性の権利が存在していない社会」となっている。
とかの状態は、「ダイバーシティ(「多様性」社会)」とは言えないという事です。
もっと多くの、いろいろな立場の人達が、何の気兼ねも無く、自由に意見を言えるようになった社会を、「ダイバーシティ(「多様性」社会)」という。
・「子供がお日様の下で、ボール遊びをしたい」という意見を言ったら、現在の日本では、「この野郎!公園で子供が騒いでうるさいから、子供は家で遊んでろ!」というのが、現在の日本の状況なので、「ダイバーシティ(「多様性」社会)」は日本では無理でしょう。
昭和の自分達が子供の時代は、「ザリガニとり遊び」、「木登り」など、何でも自由にできたので、非常にいい時代だった。
(4) 「ユニバーサルデザイン」
ユーザーの身体能力の違いや年齢、性別、国籍に関わらず、すべての人が使いやすいように作られたデザインのこと。
中国の学校の同性愛対策のように、「全員、ジャージ登校する(ボディーラインが出ないので、肥満などのいじめ対策になったり、女性の痴漢対策などになるので)」みたいな発想でもあるので、「1つの規格化されたデザインや、ユニフォームを全員が使う」という合理主義の塊で、共産主義や社会主義や全体主義のような国家を成り立たせやすい構造の社会システムでもあるという一面を持つ。
ある意味、「全員規格化された同じ人間にして、男女の別を認めない」という「人間をロボットや物として扱う」社会の考え方になりかねない。
「ディストピア(管理社会)」では、この方式が採用されやすい。
・啓蒙思想である「SDGs」は、本当に正しい知識なのか?は、正直、自分の判断では半々位のまだ疑問符の多い状態です。
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