「概念と概念の間」心随念から法随念へ
「ヴィパッサナー瞑想」は、「観照」によって進んでいく。
ここで、観照について改めて確認する。
そのやり方は、意識をなにか一つ(部分)に固定して、固定したままその一つのものへの認識を外す。そうすると、気づきが全体へ広がる(背後のものを捉えられる)というものだ。【観照とは「見ないように見ること」】
このときに、認識した一つのものは、想念である。身随念と受随念においては、想念が含まれているため、観照+考察となる。
そして、心随念には、想念が含まれないため、観照のみとなる。
心随念においては、一つのものを捉えることができなくなって、ただ全体を認識する。
しかし、そこには「心のベール」がある。そして、心とは「虚空(空間)」である。その空間の上に、エネルギーと身体がある。それら全体に気づくのだ。
そうして、ここまで(身→受→心)は、身体性の領域を扱ってきた。
【2種類の感覚「身随念と受随念の違い」】
【「ラベリング(想念)を外す」心随念】
ここからは、精神性の領域において観照をしていく。それが、「法随念」となる。
心(身体性を含む)から解放されていくとき、最も顕著に感じられるのは、「時間」が外れていくことだ。
この時間は身体に属している。
では、時間に属していないものはなにか?
それは「概念」と「涅槃」である。
そこで、法随念では、この概念(法)によって、涅槃(法)に向かっていく。
このときの思考には身体性(時間)がない。それは、プロセス(線形)がないことを意味する。
ここで、智慧(直感、非線形)によって概念を見ていく。
智慧で見るとは、形(概念)を見るのではない。
形として現れない概念と概念の間、つまり関係性(縁起)を見ていく。
具体的なやり方については、いくつかバリエーションがあるかもしれない。私個人のものを共有しておこう。
感覚的なものとしては、直接概念と概念の間を見ることである。思考と思考の隙間を見るのだ。思考の始まりと終わりを平等に見るでもある。
【始まりと終わり、有ると無いを平等に見る】
もう一つは「清浄道論」のやり方を参考にして説明したい。
まとめると(「触」がハッキリしているタイプにおいて)「身浄色と有分意界を同時に見て、概念を思い浮かべる」
身浄色とは、透明な身体であり、身体性を外すことと考えられる。
有分意界とは、心基(ハート)である。
そして、概念が浮かぶのは頭となる。
心随念を終えるまでは、概念を観察(考察)するときは「私が思考する」となり、心と一体化してしまう。
そこで、心が想念から解放されると、思考の背後にあるものとしてハートが捉えられる。そうして、「私が、『心が思考していること』に気づく」となる。そのように、概念の背後にある関係性(縁起)を捉えられるようになる。
そして、最後にはその「私」も、私ではないことを知る(五蘊無我)。
なぜ、法随念の前に、他の随念を行うのか?
仏教での克服すべきものは無知、欲、怒りの三毒である。そして、無知によって、欲が生じ、欲によって怒りが生じる。
「怒り」を含む想念は具体的なものとなる。過去や未来の時間、場所、人物が含まれる。そのため、抽象的な思考を働かせるためには、まず怒りを克服しなければならない。
さらに「欲」によって、人は見たいように見る。そのため、物事の背後(本質)を見抜くことが難しくなる。
これら怒りと欲に対処した後に、法随念によって原因である「無知」を克服していく。
身随念と受随念では、想念を抑制した(戒学)。
心随念によって、心から想念を解放させた(定学)。
そして、法随念によって、想念そのものを克服する(慧学)。
というプロセスを進めていく。
法随念で見る縁起は、四聖諦では「十二支縁起」としてまとめられている。このとき、各項目を見ていくのではなく、項目間の縁起、構造を捉えていく。それを、五蘊や六処などを用いて分析、識別していくのだ。
法随念を、一言でまとめるならば、「智慧(直感、非線形)によって、様々な概念の縁起(関係性、構造)を識別すること」となる。
これを、「考えないように、考える」と言うこともできる。これを一般的にすると、このようになる【考えるとき、頭を空っぽにする】。
「智慧」と「識別」については、下記に書いた。
【智慧で見る「自明なものほど見えにくい」】
【識別すること「部分、全体、構造」】