呼吸の停止は普通じゃない!?
あるとき、仏教の瞑想会に参加していた。
そこで参禅者が質問をした。
「入息と出息の切り替わる瞬間に涅槃があるのではないですか?」
禅師が少し間を置いて、「その通りです。」と答えた。
それを聞いて、どういうことかよく分からなかった。そのため、それについて考えることはなかった。
なぜなら、私にとって、入息と出息のすき間に停止があるのが当たり前だと思っていたからだ。
もちろんこのときの呼吸は、自然に任せていて、吸ったり吐いたり、止めようとしたりも意図していない。
しばらくして、グナラタナ長老の著作に、以下の記述を見つけた。
ここでは、瞬間の「間」となっている。
仏教において息の間の停止についての記述はほとんど見かけない。
ここで、なぜ呼吸の停止を問題にするかと言えば、サマタ瞑想(1つの対象に意識を集中していく瞑想)で禅定(超越状態)に入っていくときに、呼吸への専注が必要になるのだが、呼吸が止まると、注意を息に向けられなくなるのだ。その間、注意は身体の感覚に向かわざるを得ない。すると、別の瞑想になってしまう。
ヴィパッサナー瞑想(あるがままに識別する瞑想)には問題がない。それどころかむしろ、呼吸の停止があるほうが、心を観ていくには良いのだった。
さらに、瞑想などの実践を一通り終えたとき、呼吸の停止が呼吸の長さを上回って、驚くほど長くなった。そこで、滞在していた僧院の指導者に確認をしてみた。
すると、「呼吸の停止はあり得ない。それは呼吸が微細になって気がついていないだけだ。」と言われた。
私はずっと呼吸への気づきを保っていたので、様々に検証して、自然な呼吸での停止を確認していた。
入息と出息と停止の割合いなども含め、報告しようとしても、「呼吸は止まらない」と全く取り合ってもらえなかった。
そのとき、私にとっては当たり前だったので、そんなにありえないことなのかと不思議に思った。
ここで、ようやく呼吸の停止は普通のことではないのかもしれないと思い至った。
ちなみに、呼吸の瞑想をしっかり実践したことがある人ならば、呼吸が停止したように、息が捉えられなくなる経験をしたことがあるかもしれない。
そして、それは粗大なはっきりした息と、その背後の途切れなく続いている微細な息が静まって、認識できなくなっただけで止まっていないということも、知っているかもしれない。
しかし、それは息全体が止まったように捉えられなくなるのであって、入息と出息の間の停止ではない。
私もその捉えられなくなるほど微細になる経験はあるが、それとは違うように感じるのだ。
ヨーガの呼吸の停止があることは知ってはいた。しかし、おそらくほとんどは意図的なもので、自然な呼吸ではないのではないか。
そのようにして、自然な呼吸の停止について、興味を持ち始めた。
今のところの個人的な考察はここにまとめた。
ちなみに、黒柳徹子さんは呼吸の停止がはっきりしているのではないかと思う。
そのため、人からいつ呼吸をしているか分からないと言われるそうだ。
そして、同じような呼吸をしている人に会うと、そのことが分かるらしい。
なんとも興味深い。
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