「認識のギャップを埋める」マインドフルネス

私たちは、見ているものと見ていると思っているもの、感じていることと感じていると思っていることが異なる。

そのように、あるがままにあるものと、認識(自覚)しているものには、ギャップがある。
そのギャップを埋めるのが、「マインドフルネス」である。

なぜそのようなギャップが生まれるのか?

それは見たいものを見ようとするからであり、欲しいものを得ようとして、コントロールするからだ。

では、コントロールしてはいけないのか?

そこで「なぜコントロールする必要があるのか?」それを考えてみよう。

持っているものと、持っていると思っているものにギャップがあるから、そのようにより良いものが欲しくなる。
自分が本当に持っているものを正しく自覚すること、これがマインドフルにある(Being)ということだ。

所有物は、本当に私のものだろうか?
この身体は、本当に私のものだろうか?
この感覚(エネルギー)は?心は?

コントロールするということは、そのものと自己を同一化することを意味する。
その自己同一化を離れることは、コントロールを手放すことでもある。

そのようにして手放そうとすると、なにも無くなってしまうのではないか?と恐れを感じる人もいるかもしれない。
これは、認識のギャップ(自分が本当に持っているものが分からない)が問題を起こしているのだ。

そして、まさにそのように、認識のギャップとコントロールすることが、お互いに支え合って維持される仕組みになっている。

これらの根本的な原因は、良いものを求め、不快なものを避けようとする衝動である。
これを仏教では渇愛(Tanha)と呼び、これが輪廻転生の根本的な原因である。

仏教が誕生したころは、解脱を目指す手段は霊的な儀式や苦行だった。それによって、完全なる浄化を目指した。しかし、それらはコントロールすることを前提にしていたため、どれだけやっても終わりがなかった。
有に向かっていっても、無に向かっていっても、解脱できなかったとき、ゴータマ・ブッダが「中道」を説いたとされる。

それでは、どのように解放されていくのか?

ゴータマは「最上の修習は耐えることである」と言う。
解決しようとすることそのものが問題であるため、放っておく=「耐える」
苦しみを苦しみとして、楽を楽として、味わい尽くすことだ。
古(いにしえ)の行法

すると、渇愛の二重苦が収まって、喜びが生じる。そして、今までなんて無駄に苦しんでいたんだと知るだろう。

例えるならば、人は熱された鉄の玉を握りしめている。間違ったものを求めているのだ。ただそのことを知ればいい。どうすればいいかは明らかなのだから。

さらに、その喜びに満足する。満足して安心すると、心が統一される。
【二重苦について「身体はあるがまま」】

その上で、「あるがままに見なさい」と言われる。

なにをあるがままに見るのか?

それは、コントロールすることそのものが、苦しみを生み出している原因であることを見抜くことだ。苦しみを避けようとすることで、余計に苦しんでいたのだ。そして、楽を追い求めること自体、苦しみに囚われている。
そして、物事は自然にただあること(それ自体が苦しみではないこと)。
物事は「無常」であり、苦も楽もやってきては去っていくことをあるがままに見る。

すると、コントロールすることをむしろ厭うようになる。
そうして、執着から離れると、苦しみの原因が消滅していく。
最後に、苦しみのない中立すらも捨て去る。なぜなら、そこにはまだリスク(危険)が残っているからだ。
そのように、絶対の安楽に至る。

以上を、仏教では「四聖諦」呼ぶ。
このように、苦しみと苦しみが生じるからくりをあるがままに見ることが、「四念処(マインドフルネス)」である。

私たちは自然状態で、いつも至福なのだ。そのことに気づくだけでいい。
すであるものを、あるがままに見ること、それが「マインドフルネス」である。


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