気づき(サティ)とは、「忘れないこと」
マインドフルネスの語源に当たる言葉は「sati(サティ)」であると言われている。
この意味は「忘れないこと、記憶」であり、「念」という漢字が当てられている。
しかし、この意味では瞑想を説明しづらいため「気づき」という意味が与えられていることが多い。
しかし、ここでは、なぜサティが「忘れないこと」であることが重要なのかについて考えてみたい。
誰も「私がいる」ことを知っている。
しかし、その私は誰なのかはよく知らない。
なぜなら、それは自明なことだからだ。
どこから来たのか?そして、どこへ行くのか?
それも自明なことなのだ。
私を見ようとすると、なにかの根拠を探さなければいけなくなる。
「私」が私を探しているのだ。
二人の私がいるのだろうか?
私は根拠があっているのではない。
もし記憶喪失になっても、私があることは分かるだろう。
新しく私を知ることはできない。
すでに知っているのだから。
忘れてしまったのだ。
私たちは思い出さなければいけない。
そして、「サティ」とは忘れないことである。
なにかを観察(主体−客体)するとき、自明さが損なわれる。
新たになにかを見ようとしているのだ。
忘れないためには、先に知っていなければいけない。つまり、忘れることができるものは、自明なものだ。
そのため、サティ(気づき)には智慧が伴う。
【智慧で見る「自明なものほど見えにくい」】
「気づき(サティ)」とは、自明なものを忘れないことである。しかし、このこと自体が自明であるため、気づきの意味も忘れてしまう。
呼吸しているとき、呼吸していることは自明なことだ。歩いているとき、歩いていることも自明なことだ。
歩いている人が「私は歩いているだろうか?」と疑問に思うだろうか?
なにを見る(観察)必要があるだろうか?
「無我である」と、教えられる。
無我であるということは、智慧である。
そのため、無我を新しく知ることもできない。
しかし、無我を智慧で見れるならば、教えは必要ない。
もし教えを必要とするならば、私を見なければいけない。
なぜなら、「私がいる」ということならば、すでに自明に気づいているからだ。
そして、本当にそれは私なのか、私のものなのか、本当の私なのか、自分で確かめなければならない。
そのために、その自明なことを忘れないようにすること。
それが仏教の瞑想(四念処=正念)である。