「想念(ラベリング)を外す」心随念(心の気づき)

ここで、心随念(心の気づきの実践)について詳しく見ていきたい。

但し、これは五蘊法(簡略法)によるもので、仏教理論(アビダンマ)に基づいて心を詳細に分析することはしない。

まず、心とは知覚(知る主体)である。
そして、知るためには、受(エネルギー)が必要である。
知る客体(対象)は、五感と思考(概念)となる。
これら全体を識別するのが、心随念となる。

次に、五蘊を確認する。
「色→受→想→行→識」は粗雑なものから微細なものへの並んでいる。
そして、「行」が心に対応している。
ここで、心随念を理解するために、重要なのものは「想(想念)」となる。
五蘊を四念処に対応させると、身→色+想受→受+想心→行、法→識となる。
ここで、心随念には「想」の働きが落ちる

具体的に、もう一度、身随念と受随念を確認して、心随念を解説する。

身随念のプロセスはここで解説した。
【瞑想のプロセス「身随念(アーナーパーナ・サティ)」】

三.「全身を感知しながら息を吸おう、全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。

ここで、以下の二つを同時に行う。
・「吸う」「吐く」のラベリング(概念)
・全身の微細な振動(身体感覚)


受随念についても見てみる。

七.「cittasankhalaを感知しながら息を吸おう、全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。

cittasankhalaとは、別の経典で「受+想」とされる。そのため、ここでも、以下の二つを同時に行う。
・「吸う」「吐く」のラベリング(概念)
・全身の感受作用(精神的感覚)

ちなみに、この感覚+想念(受+想)とは、感情や気持ちと呼ぶものが含まれる。本来、心には形はない。形があるとき、citta(心)+sankhala(形成作用)となり、概念的に認識することができる。

以上のように、身随念と受随念の二つは行うことは同じで、観照に含まれる領域が異なるだけとなる。
【2種類の感覚「身随念と受随念の違い」】

次に、心随念の項目を見る。

九.「citta(心)を感知しながら息を吸おう、全身を感知しながら息を吐こう」と訓練する。

身随念、受随念においては、考察(ラベリング)+観照であったのが、心随念において観照のみとなる。
そのため、心随念においてもラベリングが外れるだけで、基本的には同じように進めていくことになる。

では、心随念において、どのようなことが起こるのか?

そもそもラベリングの目的は、想念を固定することで、他の想念を抑制することとなる。
つまり、一つのことを考えているとき、同時には別のことは考えられないように、思考で思考を対処しているのだ。これは、サマタ瞑想の原理と同じである。
【サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い】

ラベリングを外すということは、想念の抑制(コントロール)を外すことでもある。そのため、心随念を始めると、思考が強く出てくる。
その思考を追いかけず、放っておくと、心が想念から解放されていく。そうして、心が全体的に統一されていくと、サマーディへと向かっていく。
【自然な呼吸の停止と心の解放】

感覚的には、身随念には身体の輪郭がはっきりと感じられる。受随念になると、輪郭はぼんやりし、身体の内部もはっきり感じられるようになる。心随念になると、境界の感じが無くなり、身体の外部も含め、より全体的になる。
この境界の感じが、ラベリング(想念)の微細さに関わっていると考えられる。なぜなら、形は概念(想念)だからである。

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