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シンプルな仏教全体②「瞑想と出離」
前回、シンプルな仏教全体を「無執着と忍耐」として示した。
そこでは、「布施」と「戒律」による世間的な無執着、「無常」と「苦」による出世間的な無執着が要であったが、
瞑想実践についても同様であることを見ていこう。
布施とは、自分が選んだ信仰の対象に、所有物などを差し出すこと。
「サマタ瞑想」とは、自分が選んだ対象に、注意を持続的に向けること。
どちらも一つのもので、他のものを放棄する。
そのときに、外(他)に向かう心を自己規律(戒律)によって制御する。
そうして、世間的に外から内へ、無執着によって「出離」することで「道」を見出す。
このとき、一つの対象を手放して(外して)、「ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)」へ進む。
これが、「戒禁取(こだわり)」の克服である。
ヴィパッサナー瞑想(四念処)とは、意識を「内」に向け、自然に任せてリラックスすること(忍耐)である。
身体、感覚、心、意識(法)において、内に(部分)、外に(全体)、内にも外にも(合一)、あるがままに見て、無執着によって出離(無我)する。
最後の法随念においては、出世間的な「無常」→「無執着」→「滅尽」→「捨離」となる。
無常によって無執着を確立し、主体と客体の滅尽、そして無我を捨て去って、解脱する。
※ちなみに、仏教には、説一切有部や中観派、唯識派などいろいろな理論があるが、それらはこの「法随念」である。
そうでなければ、心を識別することはできないし、ましてや意識や涅槃については、ほとんど解釈でしか無くなってしまうからだ。
もう少し具体的に見てみよう。
身体の行為を正しく知り(気づき)、身体を超える。
内的な中心を捉えることで感覚を制御し、思考を静める。
感覚的な中心を手放すことで(形、内と外の無い)心を捉え、想念を解放する。
心の全体(純粋な心)に留まることで、その背後(根源)の意識(≒涅槃)を知る。
そうして、それら全てから出離して、解脱(般涅槃)する。
始めに、(世間的に)一つの対象で、他を制御したように、(出世間的に)中心によって、思考(感覚)を制御する。
次(中間)に、一つの対象を手放して道を見出したように、中心を手放すことで全体を見出す。
最後に、全体から出離(中道)することで、解脱する。
以上が「(世間)サマタ瞑想」と「(出世間)ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス)」における「出離(中道)」であった。
以下が、その具体的なまとめになる。
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