音のない世界と心
耳が聞こえなくなるか、目が見えなくなるか
どちらかといえば、耳が聞こえなくなる方がまだましなのではとずっと思っていた
聞こえ間違いはあっても、見間違いはない(何度も見返せるから)
それに、私も視覚優位の人間だと思っているから
木10ドラマ「silent」
1話の最後、紬と想の会話を1回目は音ありで、2回目は消音にしてみた
率直に、苦しくなった
久しぶりに会えて、色々聞きたいことがあるんだろうな、という紬の必死さは「見える」
でも、本当に何を言っているのか「聞こえなかった」
私は1度そのシーンを聞いているのに、内容が読み取れなかった
せめて口の動きをもう少しゆっくりにしてくれたらなと思うけど、それを伝える術をもっていない
いや、もっているけど、「伝わらない」
今すぐその場から逃げ出したい気持ちになった
目が見えないよりはましだなんて、浅はかな考えだったと気づかされた
言葉を大切にしていた想と紬に対して、あまりにも残酷な現実だった
2話は、もう一度会いたいという紬に対して、あっても何も変わらないからLINEでいいと答える想
想に同意だった
会っても、ポケトークを使うのなら、LINEでいい
でも、紬は手話を覚えてきていた
この状況だと、会う意味があるなと感じた
会話をする方法としてはどちらも成立しているけれど、
それを作業に感じてしまうのか、心まで伝わってくる気がするのかは大きな問題な気がする
これって、外国語の通訳アプリでも言えるのかもしれない
今の時代、英語を話せなくても、Google翻訳で意思の疎通はとれる
でも、Google翻訳を使われた側は、いい気はしないのでは…と考えるようになった
どんなにつたない英語でも、頑張って話してくれる方が心が通じる気がした
この世の中、便利なものはいくつもつくられているし、
それによって助けられている人が多くいることも知っている
でも、それに甘えるのではなくて、人の努力や思いによって獲得した力にも目を向けていきたい(使ってはいけないとまでは思っていない)
人と人がかかわるのであれば、心や気持ちといった目には見えない不確かなものも大切であるし、そういうものが人間らしさでもあるのかもしれない