びじゅつやってみよ その4「おっきな紙とちっさな紙と感覚統合の話」
1、自分をちょっと拡げるお絵描き方法
腕をぐるぐると準備体操をしてからいつもと違うカレンダーの裏紙や大きな紙に描くをするのはとても世界がパァッとなりますパァッと。
大きな紙やキャンバスにいつも描いている人はポストカード十番勝負をすると世界が内側に入っていきます。キラキラっと中に見えてきます。
あったりまえのことですが、上記の二つは使っている筋肉は違います。
付随して、使う脳も変わります。だから、固まってきたなって思ったら画材や支持体や大きさを変えると予想外の自分に出会えます。
iPadでお絵描きする方いますよね。その瞬間描く枚数が増えるのも、同じような感じかもしれませんね。
2、「型」と「固(かた?)」
最近は、「やりたいようにしよう」、「やりたいことしかしたくない」、「やりたいことをすると癒される」がもう巷に溢れ飛び散っていて、かえって不自由になっているなぁと思うことが多々あります。
人生色々、人それぞれだということが定着してきた反面、じゃぁそこから気持ちよく自分を拡げるというターンになると踏み出す一歩に悩まれる方、いらっしゃらないでしょうか。
例えば、鉛筆の持ち方。
指導されるのが嫌だとおっしゃる方たくさんいます。「全体的で個を見ない全体教育のあらわれだ!」とお叱りを受けたこともありますw
お勉強をたくさんしなければならない世の中、同じ持ち方で書き始めたら勉強が捗り集中ができるという生徒さんもよく聞きます。げんもかつげる。
ですが、人は一つの行動にハマってそれで作業を始めると、体が決まってきます。何千何万の線を描いた上で自分の中の一本(型)を導き出すことと、楽を求めて筋肉を固めてそれしか引けないやむを得ない一本を引くのとでは「カタ」はカタでも意味合いが違いませんか?
3、感覚と意識と身体のズレ
最近の教室で特に気になるのはこの鉛筆の持ち方です。鉛筆の持ち方については上記の問題もあるのであえて授業中に言葉にしないのですが(先ほどのように烈火のように怒鳴りつけてくださる方もおられます故)、小刀やカッターの使い方を話すとよくわかります。正しく持てない、持ちたくない方がとても多くなりました。
最低限の「刃物の前に指を置いたら怪我をします」という「@@をしたら@@になる」という言葉と感覚も一致しないようです。使いやすい刃物の持ち方は人それぞれなので、「使いやすい=安全」と認識してしまい、刃物の前に指があっても、「使いにくい=危険」と判断してしまうようですね。
そう、体も脳も固まってるのではないでしょうか。単に経験が少ないという言葉が聞かれますが、、、それも凝固の一つの現れですよね。
かくゆうわたくしも、実は体がすぐ硬くなります。元気がないけど達成感だけ欲しいから小さい絵ばかり描いてしまうwとか。慣れた鉛筆ばかり使ってしまうとか。それに、絵描きは最低20年間は同じテイストの絵を絵を描いて覚えてもらわないといけないとかおっしゃる絵画団体の方もおられますからね。(それは商売として絵を描く場合だからねっ)
4、小さな感覚統合のための一歩
感覚と意識と身体行動のズレはこうやって生まれてしまうと思ってます。特に、発達でよく言われるグレーゾーンの子はズレやすく固まりやすい傾向を感じます。(前述の通り私もそうなので言ってるのですが)
ここで、確かに新しい道具を導入したり持ち方を指示されると、脳はバチバチと違和感を感じて、「無理矢理やらされている!!!この教師嫌い!!!古いやり方!!!」となります。ですが、ちょっとお門違いと感じるかもしれませんが騙されたと思って柔軟運動してみてください。力を抜いて、手足ぶらぶらをして、もう一回カッターを持って鉛筆削ってみてください。さっきより体が動くぞって思ったらこっちのもんです。新しい道具を手に入れたらあなたの世界は向こうの丘まで見えるようになるんです。
「感覚統合」という言葉は、保育の現場では使われはじめてます。「関わりづらさ」の理由を知り、理解を進めようというものです。これ、主に小さい子に言われてはいますが、小さい子は大きくなります。大きくなって全く「感覚統合」に問題のない大人になるわけないのです。それまでそれぞれなりに社会性を持って困りに向かい合ってきたものが、突然中学校高校社会に出てみんなと同じことができると私は思ってないです。ずっと、体が硬くなることを意識において、ほぐしたりさぐったりし続けて自分の一本の線を探せばいいと思います。
そんな、ほぐす作業に、線の練習や色の練習やひいては「美術」があってもいいし、自分の線を見つめる作業の中を「美術」が担ってもいいのではないでしょうか。
新しい世界に出会うことは、ストレス発散でもあり癒しでもあるけれど、自分を支えてくれる生きがいでもあるんですよね。