Rainbow⑦
不協和音-⑤
その日の朝は、ベトベトした潮風にジメジメとした湿気が混じり、肌にしつこく纏わりついていて、空気が昨日よりも重く感じられた。
石垣島では、平年だと5月の連休前後に梅雨が訪れる。梅雨のことを沖縄の方言で「スーマンボースー」と言い、これは梅雨の期間に二十四節気の「小満=スーマン」と「芒種=ボースー」が過ぎることから、そう呼ばれている。
この時期は、立っているだけで全身の汗腺から汗が吹き出てくる。
真里は日課のダンスを白保海岸の砂浜で一時間し終えたところだった。全身が、まるで海で泳いで来たかのように濡れていた。真里は練習終わりにいつものように、流木に座ろうと視線を向けると、そこには、足を組んで座っている人がいた。真里の方を睨みつけるように見ている。
「やばい!」と真里は瞬間的に思った。がっちりとした体型を見るからに、明らかに男性だ。こんな蒸し暑いのに焦茶の革ジャンを付けている。見かけない人影から、恐らくは観光客か何か。しかし、この近くにホテルなどない。両親が営む定食屋は八時半からの営業だ。観光客が朝の六時頃から何もないこの砂浜に来ることは、これまでに一度も無かった。真里は流木近くに水筒を置いていたが、取るのを諦めて反対の方角に足を早めて歩いた。背後から声は聞こえてこないが、刺すような視線が背中にひしひしと感じる。早くこの場を去ろう。真里は全速力で駆け出した。
家に着くと、思いっきり玄関のドアを開け急いで閉めて鍵をかけた。真里の呼吸は荒く、気持ちを落ち着けようと深呼吸を試みたが、途中で咽せて咳が出た。逃げているときに感じた背後の視線を思い出し、真里の全身に鳥肌が立った。――怖かった。まじまじと見たわけではないが、あの人の放つオーラみたいなものが尋常じゃない感じがした。しばらくは砂浜での練習を止めて、家の庭で練習することにしようと真里は思った。両親は、店で朝の仕込みをしている。
少し落ち着きを取り戻した真里の鼻腔を温かな味噌汁の香りがくすぐった。今朝の味噌汁は、イナムドゥチだな。それは真里の大好物だった。
イナムドゥチは、琉球王朝時代には高級料理の一つだった。「イナ=いのしし」と「ムドゥチ=もどき」が名前の由来で、かつては、猪肉で調理されていたようだ。しかし、その肉が手に入りにくくなり、代用として豚肉を使うようになった。
イナムドゥチは、白味噌のとろみのある甘ったるさと豚肉の柔らかさが絶品だ。島で採れた人参や大根は、口の中で一口噛めば後はとろけていくように絶妙な煮加減で調理されている。疲れた体を優しく包み込んでくれるその味は、まさに我が家の味であり、「食によって今私は生かされている」と、実感できる瞬間をもたらしてくれる逸品だ。
真里は、玄関で島ぞうりを脱ぎ捨て風呂場でシャワーを浴び、仕込み中の店内へと駆けていった。真里は、先ほどから溢れ出る唾液を抑えるのに必死だったのだ。
「もう、何? 子どもみたいに慌てちゃって。年頃の娘とは思えないわね」母の千夏が微笑みを含んだ声で言った。
「だって、大好物の匂いが部屋中に漂ってるんだよ。我慢できないじゃん」真里は、一掬いして湯気に何度か息を吹きかけた。そして、イナムドゥチを口の中へ運んだ。じっくりと時間をかけ、口の中で溶けてゆくのを待つ。唾液と混ざり合い気管を抜けて、胃の入り口辺りに熱を感じる。この瞬間、私は生きている。――そう感じる。真里が食べる様子を、父の史は厨房からこっそり覗いて笑みを浮かべた。
真里はイナムドゥチをゆっくりと味わいながら、食事を終え厨房を見た。両親は、いつものように開店前の準備をしている。真里は構わずに厨房に声をかけた。
「ねえ、今日海岸で変な男の人を見かけたの。流木の椅子に座って、私を睨むように見てた。私怖くて、逃げてきたんだから」真里は、あの時の恐怖が再び思い出され鳥肌が立った。
「しばらくは、あそこで練習するのを控えた方がいい」と史が不安な表情をみせる。千夏は、開店準備が一段落したからと、すぐさま海岸の方へ駆け出して行った。史が、「おい」と千夏の背中に声を掛けたが、既に出口を曲がって姿は見えなかった。
しばらくすると、千夏が真里の水筒を持って困った顔をして戻ってきた。
「どうした?」千夏の腑に落ちない表情に、史が聞いた。千夏は、首を傾げて史にスマートフォンの画面を見せた。
「何、どうかしたの?」真里が二人を見る。二人は顔を見合わせて、互いに困った表情を見せながら真里にスマートフォンの画面を真里には向けた。
(へ、タ、ク、ソ)
画面に映っていたのは、流木の前の砂浜に書かれた四文字の言葉。
「『ヘ、タ、ク、ソ』……は? 何なの。最低!」
真里は、瞬間的に怒りが込み上がってきて、喉の渇きを覚えた。テーブルの水差しを無造作に手に取り、コップいっぱいに水を注ぎ、それを一気に飲み干した。
「今度会ったら、宣戦布告してやる!」口元に残った水を片手で拭いながら、真里はスマートフォンの画面に書かれた四文字を睨んでいた。
今朝の最悪なスタートがまだ頭の中に残っている。真里は、劇団の稽古場に来ていた。
稽古場といっても、場所は市街地から少し離れたところにあり、「石垣青少年の家」という教育センター施設の体育館を稽古場にしている。だから、教育センターのイベントがある時は、どこかの学校の体育館で空きがあれば使わせてもらっている。どこも空きのない場合は、芝生広場などの野外施設で稽古することもある。
「ウィングキッズリーダーズ」は、発足から二十年余り活動を維持している。
発足初年度から何年かは、石垣市の健全な青少年育成事業として、市を挙げての一大プロジェクトの一つに数えられていた。その分、団員も毎年百名近くいたと聞く。いまでは、プロジェクトも下火になり、事業運営は保護者主体で行っていて、指導者は社会人となり島に戻ってきたOB、OGの元団員たち。現在の団員数は、五十名を切っている。だから、団員の確保が毎年の課題となっている。
真里は、琴美に今朝のことを伝えたくて声を掛けようとしたが、既にスイッチが入っている様子を見ると、今は止めておこうと思い止まった。稽古終わりにでも、ゆっくり話が出来ればいい。真里はフロアに座り稽古前の柔軟体操を始めた。稽古開始15分前にも関わらず、人は疎らだ。……公演まではまだ日が遠い。……だけど、公演日が近づいても今と変わらないことを真里は知っている。
ダンスリーダーをしていた去年。公演前最後の練習を30分遅刻してきた二人の役者メンバーに、真里は怒りを露わに言った。
「ふざけないで、何時だと思ってるの! 本番は明日だよ、分かってる? もっと気持ちを引き締めて! みんなに迷惑かけてるんだからね!」
真里の言葉に、遅れて来た二人は泣いてしまった。真里はそれにもイラッと来て、「泣くぐらいなら、時間通りに来なさい!」と、さらに怒った。泣いている二人に気付いた琴美が、二人の元へ駆け寄り肩を抱いて発声練習中の役者チームの方へ連れて行った。琴美は真里の方を振り返り「ごめんね」と、口を動かして謝った。
真里のあの一件が原因かどうかは分からないが、公演終了後、あの二人は劇団を辞めた。始めから辞めるつもりだったのではないかと真里は感じていたが、そうではないと思っているメンバーもいることを真里は琴美から聞いてる。
琴美は優しい、本当に。メンバー一人一人に声を掛けている琴美を真里は体操しながら見ていた。
「真里がこれ以上、メンバーから印象を悪く持たれないように、自分が全体の指揮を執るから、真里は私のサポート役として側にいてほしい」
年度初めに真里は琴美に言われた。そのとき、異なる二つの感情を真里は感じた。一つは、「負けてなるものか」という思い。私は悪いことを言ったつもりはない。だから、周りから何を言われようと謝ったりはしない。もう一つは、「よかった」という安堵の思いだった。正直、私が全体のリーダーになることで揉め事が増えるかもしれないと考えなかったといえば嘘になる。
琴美が全体のリーダーになると言ったとき、重くのしかかっていたものが取り除かれた思いがした。認めたくはなかったが、私も人並みに人目を気にする性格なのだと真里は思い知らされた。それと同時に、琴美の芯の強さをまざまざと見せつけられた。
真里は、自分の前に置いたスマートフォンの画面にタッチした。画面の時計は九時五分と表示されている。視線を室内全体に向けると、真里を合わせて五人ほどいる。スマートフォンの画面で「参加◯」の数を数えると三十個あった。今日もまた、稽古開始時間を三十分遅らせるしかなさそうだ。
室内のジメジメした空気がやけに苦しく感じるのは、私だけだろうか。と、真里は思う。……公演まではまだ日が遠い。……真里は心の中で、今日何度目かの同じ言葉を独りごちる。体は既に温まっている。
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