「観音菩薩になろうの会」のきほんのき① 友達に厶厶ムッの巻。
ある日、友達が言った。
「『観音菩薩になろうの会』入りたいけど、難しそう」
私は耳を疑った。
「難しい?」
「うん。観音菩薩活動、私には出来なさそう。無理っぽい気がする」
「『観音さま』って称えたり、お願いしたりすればいいんだよ」
「えっ、それだけでいいの?」
「うん」
そこでようやく気がついた。
私はもっとも大切なことを言っていなかった。大事な『きほんのき』の所を全て飛ばしてしまっていた。そこは当たり前過ぎて、書くまでもないと思っていた。
私は、観音さまは誰にとってもなじみ深いもので、みんな観音さまにお願いしてると思っていた。冷静に考えれば、そんなことあるはずないのに。全くどうかしてる。そこを飛ばして「観音菩薩になって生活してみる」だなんて「私には無理そう」と言われて当然だ。
そこで今回は『きほんのき』を書いていこうと思う。
難しいことなんて一つもない。
「観音さま」と心で思う。
以上。
簡単でしょう?
と言っても、これだってなかなか難しい。普段何もない時に「観音さま」とはならない。
でも、助けてほしい時ならどうだろう?苦しみから解放されたい時なら?
「観音さま」は現世利益で有名。昔からありとあらゆる人のお願い事を観て聞いて救って下さっている。
なんて有り難い。
【観音菩薩活動きほんのき】
何か困ったら、
まず「観音さま」と称えてみよう。
観音さまは称えればすぐに来てくれる。観音経の冒頭に書いてあるのだから間違いない。
私はお願いする時は「観音さま」と親しみを込め、心の中で称えている。でも声に出すときは「南無観世音菩薩」。
「なむかんぜおんぼさつ」
声に出して称えるのがベスト。
推奨されている。
観音さまはその音を聞きわけすぐに現れ、あらゆる苦しみから救ってくれる。
本当にありがたい。
私は小さい時から今まで、困った時、助けてほしい時はいつでも観音さまにお願いをしてきた。お天気から命のことまで全部。頼りっぱなしだ。
今まではどちらかというと、自分ではどうする事も出来ないことをお願いしてきた。お願いとはそういうものだと思っていた。最近、観音菩薩活動(音活)をするようになって、私は新たなお願いを発見した。それは、私が頭にきたり、気持ちがトゲトゲした時に、観音さまにお願いするというものだ。
『自分の感情くらい自分で何とかしなくてどうする!』と思うし、観音さまだって『自分の気持ちくらい自分で何とかして下さい』と思うはず。
しかしこれがやってみると凄い。
観音さまのお慈悲は計り知れない。
例えばこんなことがあった。
ある日、私はつまらないことで嫌な気持ちになっていた。本当にくだらないどうでもいい事なのに、しっかり心が重い。暗い。
事の始まりは友達からメール。
ある日突然友達からどこかに一泊で旅行へ行かないかと誘われた。私は一泊二日の旅のプランを練った。そんなに遠くへは行けないけれど、自然に触れたい。本当は沖縄の離島にシュノーケリングをしに行きたかったけれど、休みが取れず断念した経緯があるので、シュノーケリングしたい、海に入りたいというのが2人の第一希望だった。
私も友人もシュノーケリングにはうるさい。なのでそれなりのシュノーケリングスポットを探していた。東京近郊だと葉山の方に穴場スポットがあることが分かった。ここなら一泊でもいける。その穴場をおすすめしている人のブログを読んでいくと、8月半ばを過ぎるとクラゲが大量に出ると書いてあった。全身防備すれば入れるとのことだが、シュノーケリング好きな筆者は夏の後半からはクラゲが出ない西伊豆へ行くと書いてある。すぐに西伊豆のシュノーケリングスポットを調べた。
遠いのでノーマークだったが、海の透明度も高く、地形も面白く、断然行ってみたいと思った。しかし、想像以上に不便な所だった。どこの最寄り駅からでもローカルバスで60分から90分かかる。家からだと4時間から5時間。とても1泊で行ける場所ではなかった。残念だがあきらめるしかない。
沖縄の離島の透明度100%、マンタに海亀、珊瑚に魚群を経験してしまっている私たちは普通のシュノーケリングスポットではなかなか満足できない。どこに行ったとしても比べてがっかりするに決まってる。なので私は全然違う方向で考えてみた。
海はあきらめて全く違う所。そこで私は尾瀬ケ原一泊を提案した。山小屋に泊まるプラン。調べたら新宿からバスも出ている。1泊すれば、別天地で朝日や、漆黒の夜空に浮かぶたくさんの星にも出会える。大自然を満喫できることは間違いない。しかし友人の反応はイマイチで、あくまでも海だと無言で主張してきた。わかってる。私だって海に入りたい。魚を見たい。だけど、近郊には『ないんだよ』と言いたかった。
私は時間を割いて神奈川や千葉の海をくまなく探した。ビーチはたくさんあるけれど、シュノーケリングとなると情報も少なく、これだ!という所が見つからなかった。私の中では妥協案の葉山か尾瀬ケ原の2択になり、一泊なら海じゃないけれど、大自然の尾瀬ケ原がいいんじゃないかと思い、友達にメールで聞いてみた。
葉山か尾瀬か、どっちかにしない?
しばらく返信がなかった。しばらく。忙しいんだなと思っていたら、いきなりこんな返信が返ってきた。
色々調べていたら、葉山のシュノーケリングはこの時期クラゲが多いって書いてあるのを見つけてひいた。そしたらそのブログを書いた人が秋はクラゲのいない西伊豆をすすめてて、調べたらその近くにすごく良いゲストハウスを見つけて、口コミも凄い良くて、久しぶりにワクワクした。二泊三日で行ける。
「えっ!?」
「二泊三日ってなに?」
「ワクワク?」
一泊って言ってたじゃん。だからずっと、ずーと探してたんじゃん。
大体、クラゲとか西伊豆の情報とかってとっくに知ってるし、一泊しかできないって言うから、こっちは、西伊豆を何日も前に諦めたんじゃん。私が見つけました!みたいにノーテンキに言われてもさ……。そもそもそのブログって私が読んでみてってメールで言ったヤツじゃん。
急に行く気も失せるくらい嫌な気持ちになった。
2泊できるようになって、行きたいと思っていた西伊豆に行けるなら、素直に喜べばいいのに。
びっくりするくらい心が重くなり、トゲトゲしてくる。
深呼吸してもダメ。
気分転換に買い物に行くが、なかなか気持ちが収まらない。
私はこんな感情でいたくなかった。
本当にくだらないと思っていた。
でも自分ではどうにもできなかった。
そこで、私は観音さまを心に浮かべ、称えてみることにした。自転車を漕いでいたので、声に出して称えた。
「南無観世音菩薩」
称えながら、こんなしょうもないことで観音さまも称えられたくないよねと思い、申し訳ない気持ちになる。
けれど、困った時の観音さま。
これだって確かに困ってると言えば困っている。自分の暴走する心に手を焼いて困っている。苦しんでいる。
「南無観世音菩薩」
私ってなんて心の小さい人間なんだろう。
「南無観世音菩薩」
私はいったい何でこんな嫌な気持ちになっているんだろう?
「南無観世音菩薩」
何で嫌な気持ちを消せないんだろう?
「南無観世音菩薩」
さて、ご利益はあっただろうか?
観音さまを心に浮かべ、「南無観世音菩薩」と称えると、気持ちが少し落ち着いた。私の心の中を独占してる黒い『わだかまり』がすぐに消えたりはしなかったけれど、気づけばそこから離れ、自分の気持ちを俯瞰している私がいた。
この心の暴走っていったい何?
私は順番に思い出していた。
メールを読んだ時の自分の気持ちを。
あんなに必死に考えた尾瀬ケ原の案を無視されて、葉山の妥協案もスルーされ、自分が否定されたような気持になった。ムッ。
透けて見える友人の「自分のしたい」方へ何としても持っていこうとする感じに厶ムッ。
急に友達からこれでどうだと言わんばかりにエース級の案を提示され(それも私の方が先に思いついていたことなのに)最後のお手柄を全部持っていかれたような気持ちになった。ムムムッ。
何日もかけて考えた提案を、一瞬で無かったことのようにされ、それを無邪気にあっけらかんと「ウキウキ」とか言ってくるあの態度に、ムム厶ムッ。
それになんと言っても、後出しジャンケンのような『二泊三日』。
めちゃくちゃ振り回されてる気がして、気分が悪いことこの上ない。
ムカッ。
最初から二泊できるオプションがあるなら、なんでそう先に言ってくれなかったの?そうすれば私がもっと早い段階で西伊豆を提案できた。そしたらあんなに悩まず、時間をかけずに済んだのに。
地味に怒りが込み上げてくる。
私の労力が泡と消えた。私は時間を無駄にされ、軽んじられたような気持ちになった。もちろん友達はそんな人じゃない。とてもいい人。だから色々考えてくれた。そんなことは分かってる。ただ……。
分かってるが、なかなかモヤモヤが無くならない。
軽んじられてる?
あっ、と思った。
そうか、このモヤモヤした嫌な気持ちは、友達から蔑ろにされた気がして、私傷ついているんだ。
粗末に扱われたように勝手に感じて、傷ついて、友達に怒っているんだ。
私は友人にメールで言ってみた。
「先に言って欲しかった。二泊できるんなら。そうしたらあんなに時間かけて調べなくてもすんだのに」
友人は言った。
「ごめん。そんなに調べてくれてたんだ。私も今朝気づいたの。」
旅は西伊豆に決まった。
結局、ずっとメールでやり取りをしていたから、微妙なニュアンスが伝わっていなかった。私も『何日もかけて神奈川千葉の海を全部調べた』なんていちいち言っていなかった。何で急に尾瀬ヶ原と言い出したのか、何で結局あの2つにしたのか、途中のプロセスは何も伝えていなかった。毎回結論だけを短文で送っていた。友人に分かるはずがない。
私は何を期待していたのだろう?
感謝?労い?
つまりは承認欲求か。
トホホ。
だとしたら、書けば良かったのだ。全部。恩着せがましく。カッコつけないで。私が、私は、って。
でもこれって……。
急に何かがよぎった。
私も同じことをやってるんじゃないだろうか?友人達に。
きっと友人が長い時間をかけて見つけてくれたお店や行き先に対して、私はあっけらかんと「こっちは?」と言ってきた気がする。いや、言ってきたことに思い当たり、青ざめ、固まる。
全然気づいていなかった。
「こっちは?」と言う私は、むしろ良かれと思って言っていた。協力的な私って。
でも、もしかしたら、それって‥‥‥。
私の中に「思い通りにしたい」という気持ちが無かったと言えるだろうか?今回過剰に反応したのは、自分を見てるみたいだからなのではないだろうか?
ムクムクムクと煙みたいな思考が狼煙を上げた。
まだまだ自分のこと分かってないなぁ、私。
あーあ、今までたくさんの人を傷つけてきたんだろうな。あっけらかんとノーテンキに。無意識に、無自覚に。
傷つく私は敏感だけど、傷つける私は鈍感だ。
自分を俯瞰して観れた私の心はいつの間にか晴れ、私の心を占拠していた『わだかまり』は消えていた。
あの時私は「観音さま」と心で称え「南無観世音菩薩」と声に出して称えた。
私に何が起こったのだろう?
私は怒りに囚えられた自分の心の外に出ることができた。
そこでまじまじと心を観つめた。
そして、気づけた。
自分の気持ちに、まわりの人の気持ちに。
しかし、心って不思議だ。
ママがもう死んじゃうって時に比べたら今回の事など本当にくだらないバカみたいなことなのに、同じように私の心の色が、形が、硬さが変わった。
心が重くなった。
小さなくだらないことでも、地味に心を蝕む。コントロールできなくて、振り回される。トホホ。
私って悲しくなるほど小さい。
観音菩薩への道はとてつもなく長く、険しい。果てしなく続く道だ。
でも、
だからこその『観音菩薩になろうの会』だし、
だからこその『観音菩薩活動』(略して音活)。
観音さまが一緒なら歩んでいける。
ではここで、おさらい。
観音菩薩活動のきほんのき【その1】
いつでもどこでも「観音さま」と称えよう。
特に助けが必要な時は「南無観世音菩薩」と声に出して称えよう。
以上。
ね、簡単でしょ?
つづく