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「観音菩薩になろうの会」って何するの?音活と書いて、のんかつと読みます。

いつからだったかはっきりしないが今年に入ってからなんとなく、

「観音菩薩になって生活してみたらどうだろうか?」

と思い、時々こっそりやっていた。


「観音菩薩になって生活してみる」とは、

「観音菩薩になる」
「観音菩薩みたいな人になりたい」

みたいな、そんな聖人君子のような大それたことではない。

もちろんそうなりたい願いはあるけど畏れ多過ぎてよう言わんわである。

去年念願だった滝行に行って分かったことがある。それはどんなに素晴らしい体験をしてもすぐに通常の自分に戻るという事だ。

前日大雨だったから滝の勢いが凄く、ごうごう言いながら辺りを白い霧にしていた。

滝に入って行く一歩目であまりの水の冷たさに息が止まる。岩だらけの足元は一切何も見えず、一寸先は闇ならぬ穴で、落ちてしまう恐怖からなかなか足が前に出ない。

滝に打たれてる間は、頭にかかる衝撃と寒さで息を止めてしまわないように「えい、えい」と大きな声を出し続けることと、滝の水圧に押し潰されないように力を込めて立っていることだけで精一杯。

頭は真っ白、平衡感覚か゚なくなり、次第に上下もわからなくなる。

最後は感覚も無くなり、究極の「今ここ」を体験した。

なんちゃって修行体験ではあるがそのインパクトは絶大で、一気に心身共に目覚めたような、覚醒したような、心も体もミントになったみたいにスースーして風通しが良くなった気がした。

それだけでも滝に打たれて良かったと満足したのだけれど、だからと言って過去や未来を行ったり来たりする、煩悩だらけの自分はそのままちゃんと鎮座していて、まったくもっていなくならなかった。

滝行後、温泉に浸る頃には雑念の塊、煩悩の巨人にすんなり戻っていた。観音菩薩のようになるなんて、本当によう言わんわである。

なので、

「観音菩薩になって生活してみる」とは
「観音菩薩みたいになる」ではなく、

「ひとつ今から観音菩薩になってみよう」

という、なったつもりでやってみる、小さい頃たくさんやった、ごっこあそび。

そこで思い出したのが「亀は意外と速く泳ぐ」という映画の上野樹里ちゃん。

平凡な主婦がいきなりスパイになって生活してみたら、単調な灰色の毎日が違って見えた、みたいな話だったと思うんだけど、そんな感じで観音菩薩になったつもりで、そういう心持ちで世界を観てみたらどうだろうかという試みだ。

これにはちゃんとした理由がある。

「観音さまとはあなた自身である」

「あなたも私も観音菩薩」

観音経の本を読めば同じ様なありがたい言葉にたくさん出会える。 

私は「人はときどき誰かにとっての観音さまだなぁ」と思っていたので、この言葉に巡り会えた時はなんともうれしく「やっぱりそうだよね」と何度も頷いた。

そこからだいぶ月日は経つが今年に入って「じゃあ意識してやってみたらどうだろうか」と思ったのが全ての始まり。

なので「観音菩薩として生活してみる」とは、

心におわす観音菩薩を意識し、感じて生活してみる、

というのが基本なんだけれど、これが思った以上に難しい。

意識した次の瞬間、雑念が邪魔をしてもう忘れてしまってというか、無い。流石に手を合わせてる間は、まっすぐに観音さまを感じられるんだけれど、立ち上がると消えてしまっている。立ち上がって右足を出す頃には、何かしら頭には「やる事リスト」があり、心は頭に乗っ取られている。

やはり素人にはなかなかハードルが高い。

そこで考えついたのが「なったつもり」方式。

アメリカ人になったつもりで、英語を話してみる。

スパイになったつもりで、スーパーで買い物をしてみる。

観音菩薩になったつもりで、生活してみる。

しかしやってみると分かるが、これも長くは続かない。だけど心におわす観音菩薩とシンクロするよりは、続く。

そしてなんと言ってもやりやすい。

例えばこの間あった「つもり」話。

山の手線がホームに滑り込んで来る。
朝のラッシュまではいかないが混んでいる。

「嫌だなぁ、乗りたくないなぁ」

と心で悪態をつく。
ストレスを感じる。
体が硬くなり顔が険しくなるのがわかる。

乗り込む直前、

「あっそうだ、観音菩薩になったつもりで乗ってみよう」

と思い立って、電車に乗り込む。

まず姿勢が良くなる。
息が楽になり、負の感情が消えた。視界が開けたような感じになり、世界を見渡せるような気持ちになった。世界と言っても電車の中なんだけれど。

人、人、人。重なるようにいるたくさんの人を一人ひとり観ていく。圧倒的にスマホを見ている人が多くみんな下を向いている。

私がまさか「観音菩薩活動」をしているとは、誰も気がつかない。

だけどなんだろう、さっきまでみんな邪魔でいらない存在だったのに、

「なったつもり」で観てみると、

みんな朝起きて支度して、それから仕事や用事を終えて、そして今この電車に乗っているんだなあと、一人ひとりの生活が見えてきた。みんな頑張って生きてるなぁ、すごいな、仲間だなと勝手に共感して、一人ひとりに「お疲れ様です」って心の中で声をかけていた。

電車を降りる頃には、

「お互いに生きてますなあ」

養老孟司先生のフレーズまで浮かんくる始末。

それだけではない。
とんでもない「気づき」が舞い降りてきたこともある。

ある日いつものように自転車で図書館へ行こうと鍵のロックを外していると、なぜかふと、

「よし、観音菩薩として自転車に乗って図書館へ行ってみよう」

と思い立ち、観音菩薩活動をすることにした。略して音活(のんかつ)。

サドルにまたがりハンドルを握り前を向く。背筋が伸びる。いつもより青空が近く視界が明るい。風を切りペダルを漕ぐ。

見えている景色がいつもより鮮明で、木や花が生き生き輝いているのがわかる。自分も軽やかでものすごく気分がいい。

しかしそれも束の間。

一つ目の信号あたりからムクムクと頭の中に雑念があふれだし、いつもの妄想会議が始まる。

その日ぼやぼやと浮かんできたのは、この世の中には生まれてからたくさんプレゼントをもらう人とそうでない人がいるなあ、この世は不公平だな、というもの。

多分これは、何年か前に友達から聞いた話と、最近読んだガザの子供たちの話からきている。

友人の旦那は一人っ子なのに、子供の頃一度も誕生日会をやってもらったことがなく、プレゼントももらったことがなかった。それが普通だと思っていたけれど、娘が生まれ当たり前のように誕生日会やプレゼントをもらう我が子を見て悲しい気持ちになった、というなんとも切ない話。

人はいくつになっても子供の時の自分を忘れていないし、子供の時の自分で傷つく。

きっと彼はその時「泣きそうになりながら我慢してる小さかった男の子」に戻っていたに違いない。

それを大人の自分が味わっている。

その時まで無かった痛みが倍になってやってくる。それも不意にやってくる。

大人は子供より傷つく理由もタイミングもいろいろあるのに平気なふりをしないといけないから、もっと辛い。

なぜ急に自転車を漕ぎながらそんなことを思い出したのか。

そこから話は飛躍し、生まれた瞬間から祝福される子もいればそうじゃない子もいる。世界を見渡せば今だって、過去に遡ればどこでも、プレゼントどころではない過酷な状況で生まれて死んでいった子供たちもたくさんいるわけで‥‥‥、といろいろ考えていたら

「なんでこの世はこんなに不公平で悲しいんだろう」

が止まらず、横断歩道も渡らず自転車を止めて宙を見ながら考えに耽ってしまった。


信号が何度目かの青に変わった時いきなり「あっ」と思った。

あっ、でも私たちは誰でも生まれ落ちた瞬間からずっとプレゼントをもらい続けている。

それも一瞬も途切れることも休むことなく。

大きなリボンをつけた箱が数珠つなぎにもらってくれるのを待っている。

なんで今まで気づかなかったんだろう。

赤ちゃんはお母さんのおなかの外に出てきた途端「おぎゃー」と産声をあげると思われている。けれどその前にちゃんと息を吸っている。

息を吸って、その後泣くことで息を吐いているという。

この世に飛び出てきた瞬間からもらっていて、それからずっとずっと休まず届いている。

それはどこでもいつでも誰にでも、あたりまえに溢れていてないことが無い。気づかれないくらい、感謝されないくらい、圧倒的なもの。

有り難くさえ感じない。

そう言えば太陽には「ありがとう」と手を合わせたり感謝してきたが、

今の今まで空気には「ありがとう」と手を合わせたり感謝してこなかったなぁと思う。

本当に有り触れたものは見えてこない。

宇宙服を着た自分が浮かぶ。

「思いっきり息が吸えないなんて」
「思いっきり風を浴びれないなんて」

無くなって初めてわかる有り難さ。

環境問題はいろいろあるけど、空気がなくなるとかうすくなっていくとかはまだ聞かない。調べてみたらどうやらあと10億年以上大丈夫らしい。気前がいい。

なるほど「空気みたいな存在」とはやっぱり最高の褒め言葉だ。

そう思って胸いっぱい息を吸ってみる。

いつでもどこでも有る有り難さ。

さっきまでのこの世界への不満はどこへやら、嘆いていた気持ちは今や中村天風先生ばりの感激に変わっていた。

ありがとう空気。
ありがとう地球。
ありがとう命。

生きてる。生かされている。

なんだかわからない気持ちに圧倒され、とんでもない幸福感に包まれたまま、夢見心地で図書館に着いた。

この経験は圧倒的で、私の年表があるとしたらここで「以前以降」に分けられるくらいだ。

空気に感謝できて以降あまり無くなる事に囚われなくなった気がする。無いもの、減っていくものを数え出したらきりがない。不安は尽きない。でも「何が無くとも空気が有る」と思うだけでなんか気持ちが明るくなる。安心する。

なんとも形容しがたいが、この世界がやさしくなった。


観音菩薩活動は面白い。
思った以上に驚きと喜び、
そして、思いがけない発見がある。

なんたって「なったつもり」のごっこあそび。童心に返ってぜひ一度やってみてほしい。

「音活のすすめ」である。

しかしここまで読んで下さった皆さんは思うだろう。そもそも観音菩薩関係ないんじゃないの?ただのいつもの妄想じゃない?と。

たしかにどこまでいっても慈悲の心に到達するようには見えない。あっちこっちツッコミどころ満載だ。でもそこがいいのだ。とにかく敷居がめちゃくちゃ低いから取り組みやすい。お経や写経と違い、思い立ったら、いつでもどこでもできる。

それに「観音菩薩」や「観音さま」と名前を心に思い浮かべるだけでも、背筋が伸びて呼吸がしやすくなる。

それに心強いことこの上ない。

終活、婚活、朝活、腸活、様々な活動が流行っているが「音活」もその中にまぜてもらえたらうれしい。

さて、まとめると、

「観音菩薩になろうの会」とは何か?

「観音菩薩を感じて生活する」
「観音菩薩になって生活してみる」

ときどき、たまには、いつでも、どこでも。

観音菩薩は自分を照らし、
他者を照らし、
世界を照らす。

より良い世界へ。 

今のところ、参加者は4名。

「やってみたい?」と聞いて、

「 ···いいよ」と言った友達と私。

その場のノリで聞いたのでもう忘れていると思っていたがそのうちの一人は真面目に音活を始めたらしい。 

うれしいサプライズ。

「観音菩薩になろうの会」は興味を持ってくれた人が自由に気軽に始める個人活動。

全くの個人の活動だから参加者や会員もないんだけれど、広めていくことにした。

少しでも「やってみようかな」と思ってもらえたら有り難いです。

野望? いやいや。
希望? まあ。
思い? うん。
溢れる素直な思い。

観音さまが有り触れた日常にしていきたい。

ここまで読んでくれた皆さま、ありがとう。

「観音菩薩になろうの会」

只今、観音開き中です。

  

            

おわり

月観音風              
         

         

  

     







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