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ホワイトスペースのもつ力 『みみずくは黄昏に飛びたつ』

 私は村上春樹氏の著書は新作が出れば時差はありますが読んでいるいわゆる「ファン」というより「好き」くらいのスタンスです。「ハルキスト」なんておこがましくて名乗れない。。
 初めて読んだのは高校生の時の『ノルウェイの森』でした。そこから初期作品に戻り、新作を読みつつ私の10代〜40代までの読書人生(?)の中のメイン作家さんの一人です。

 今回も遅ればせながら川上未映子氏とのインタビュー集『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読みました。実は現代日本人作家の作品を村上氏以外ほとんど読まないため(ほかには平野啓一郎氏を少々)、インタビューされている川上未映子氏という作家さんのことをほとんど何も知りませんでした。まず第一に感じたのは、彼女の村上作品に対する造詣の深さでした。まさに「ハルキスト」と言える読み込みっぷりです。質問からもにわか勉強でないことはすぐにわかります。年齢は父娘ほども離れているお二人でですが、同じ「作家」という視点からの創作に関するやりとりは読んでいてとても興味深かったです。

 ところが、途中からなんだかじわじわ違和感のようなものを感じずにはいられなくなりました。川上氏の質問を、するりするりとすり抜けるような答えがところどころに見受けられるのです。私はそれを「ずるい」とか「逃げている」という捉え方ではなく、むしろその逆で「ここに村上春樹あり」と思ったのです。
 例えば、川上氏の過去の村上作品に対しての「答え合わせ」のような質問に「そうだっけ」とか「忘れちゃったなぁ」という返答が幾度かありました。もしかするとこれに対して「はぐらかしてるな」とか「インタビューに答えていないじゃないか」と感じた読者もいるかもしれません。それはきっと読書という体験において何か単純化したアンサーのようなものや、それを書いた作家に対してそれを理解できるように解説してほしいという「サービス精神のようなもの」を求めているからなのかな、と思いました。

 村上氏曰く、過去の作品は必要がなければ読み返したくないということ、それはその時の思いで書かれた物語であり、今になってその当時のことについて語ることのできない、たとえ語り継がれるベストセラーのような作品でも、彼にとってはもう「過去のもの」なのでしょう。だからこそ本当に「忘れちゃった」のであろうと思うのです。思い返す必要のないもの。これはものづくりをする方なら感じたことのある感覚だと思います。なんとも言えない羞恥心だったり、未熟さを突きつけられることですから。それは前に進むために捨てていく作業とも言えるのかも知れません。それと同時にあれこれ自分の作品を説明することの虚しさを感じるのではないでしょうか。「これはどういう思いで?」とか「これはどういう意味で?」という質問のもつ不毛さというか。
 本当のところはご本人以外わかりませんが「もっと自由に解釈してほしい」のではないかなぁと想像しました。例えばわたしが以前に展覧会に絵画作品を出展した際、観に来てくれた友人知人たちは、作品の前で「これは〇〇に見えるね」とか「これはこういう意味かな」などと自由に感じたことを口にしてくれました。私はそれら全てをそのものとして受け入れていますし、どれも決して間違いではなく、ましてや自分の口から「いや、これはこうでね、、」なんてことは一切口にはしません。

 現代作家の方々は、SNSやブログといった作品以外の場所で社会的問題への言及や政治的意見を発信していますが、村上氏は敢えてそういう事もしていません。(「村上さんのところ」という読者からの質問に答える期間限定のウェブサイトはありましたがそれももう少しほんわかした内容だっただったと記憶しています)
 それは現実社会からのデタッチメントであり、世界的な著名作家としてもっとコミットメントするべき立場なのではないか?という問いが川上氏から飛びます。それに対しても村上氏はそれは「善き物語を書くこと」で作品の中で彼なりに語っている、と言います。両氏の「職業としての小説家」としてのビジョンの違いは面白かったです。

 このインタビューで村上氏が伝えたかったことは「とにかく作品を読んで『善き物語』に出会う力を養って欲しい」という思いだった、と私は受け取りました。それは「可愛い子には旅をさせよ」という「サービス精神」とは対極にある彼なりの読者のナビゲート方法のように思いました。

 村上氏は彼独特の文体と物語の力にとてもこだわっています。文体がその物語のアイデンティティーとなり、村上作品がその「善き物語」へと多くの読者を牽引していく欠かすことのできない要素なのでしょう。

 今回のインタビューで私は小説家・創作者である村上氏としての意見に改めてかなりのシンパシーを感じました。川上氏の質問は突っ込んだものも多く、丁寧に段階を経たものではあるのですが、時々私にとっては「ちょっとそこはもういいんじゃないかな」というか、「それを言葉にしては小説家が廃る」ではありませんが、余白が欲しくなったりや息継ぎをしたくなる感覚を覚えました。それは絵画やデザインのホワイトスペース(余白)の力のようなものです。第一章のタイトルに「優れたパーカッショニストは一番大事な音を叩かない」とあるように、その周囲を丁寧に誠意を持って書くことにより、一番の肝の部分を読者自身の力で汲みとっていけるようなお膳立てをする、それはとてもテクニカルですが、それゆえに読者をより深く、遠くへと連れていける物語の力になるのではないかと思うのです。

 読者という受動的な立場から「善き物語・作品」に触れることによって能動的に物事を考えられるようになることこそが本物の芸術に触れる喜びであると願い、これからも色々な善きものへのアンテナを磨いておきたいものです。

 拙文ですが今回はちょっと真剣に自分の創作に対する思いも含めて、読みながら実際に感じたことを赤裸々に綴ってみました。読書の時間ってけっこう色々と考えてるものなのだな、と改めて感じました。



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