納豆と自己
ここ一年ちかく、毎日納豆を食べている。
すんごく好きというわけでもなかったのだが、「良質なたんぱく質」というパワーワードに魅せられて食べはじめたら、いつのまにか中毒のように、毎日食べないと落ち着かなくなっていた。
「また納豆?」という家族の言葉を受けながしながら、せっせと買いこんではかき混ぜている。
ところが、である。
これほど毎日納豆と対峙しているというのに、食べる前にいつも小さな不安をおぼえてしまう。
納豆の食べ方、これでいいのだろうか、と。
まずは、納豆を食べるタイミング。
納豆という代物はいちど箸をつけてしまうと、もう、ほかのものを同じ箸で食べることはできない。納豆を食べるのは、いちばん最後と決まっている。
しかしながら困ったことに、白いごはんにはほかにも、ともにしたいおかずがいる。こんぶの佃煮、ふりかけ、明太子、甘辛いおかずなどなど。納豆だけがいつでも白いごはんを占拠できると思ったら大まちがいなのである。
というわけで、最近のわたしは、まず納豆以外のお供やおかずで白いごはんをいただいて、ある程度少量になってきたところで、〆として、納豆のフタをぱきりと開けるようにしている。
問題はもうひとつ。
ごはんと納豆の分量について、である。
納豆以外のお供がおいしいと、ついついごはんが進んでしまい、気がつけばほんの少ししかごはんが残っていないことがある。さらに悪いことには、食べきってしまうときもある。
こんなとき、つまり、ごはんよりもあきらかに納豆の量が多いとき、わたしはいつも、少し躊躇したあげく、ええいとパックのほうにごはんを入れてしまうのだ。
これは行儀がわるいのか? きっとわるいのだと思う。
でもね、と主婦づらしたわたしが、懸命にこたえる。茶碗にねばねばがつかないんだもの。パックは捨てるだけなんだもの。
ちなみに納豆と、残りのごはんが1:1のとき、あるいは、ごはんのほうが多いときは、きちんと茶碗のほうに納豆をかけて食べている。納豆がごはんより多いと、ねばねばが茶碗につきやすいのだ。
理由はあるのだと思いながらも、パックを手にして食べるとき、奇妙な罪悪感をおぼえる。パックと、茶椀。手にして食べるときの心持ちは、どうしてああもちがうのだろう。
とにもかくにも、標準的な納豆の食べ方がわからない。
そもそも、ごはんといっしょに食べないよ、納豆単品で食べるよ、という方もいらっしゃるかもしれない。
ちなみに夫を観察してみたが、夫はごはんの上に生卵と納豆をどかんとのせて、ぐるぐるとかきまぜて食べていた。生卵が苦手なわたしには決してマネのできない食べ方で、あまり参考にはならなかった。
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本棚を片づけていたら、ふと、村上春樹の『雑文集』が目にとまった。
読者からの質問に答える、というページをたまたま開き、つい読んでしまう。その質問というのが、「就職試験で自分自身について原稿用紙四枚以内で説明しなさいと出たのですが、自分を四枚で説明だなんてとてもできませんでした。こんなとき、村上さんはどうしますか?」というものだった。
春樹はこう答えていた。
もちろん牡蠣フライでなくても、メンチカツでも、海老コロッケでもなんでもいい、と続いている。
――牡蠣フライ。
わたしはその文章を読んで思わず、下書きしていた納豆のことを思い出していた。
自己とは何か。納豆とわたしとのあいだの相関関係、距離感。
そんな視点でもういちど、自分の文章を読んでみた。そして思った。
わたしは納豆に対して、少し傲慢なのではないだろうか。毎日顔を合わせる間柄だからこそ、感謝の気持ちを忘れてはいけないはずなのに。それに、順番とか分量とか、勝手にちびちびとしたルールを設定し、なんだかせせこましい感じもする。何より、納豆の大らかさを信じきれていないのではないか。好きなように食べなさ~い、と、納豆はいつもねばねば言ってくれている気がする。
とっさに自身の反省点ばかりが浮かんだものの、その後もわたしは毎朝かわらず、もちろん今朝も、同じ方法で納豆を食べている。
ひとまずけっこう、しつこいほうなのかもしれない。