文章は、書かなければ絶対に上手くならない。行動に勝る学びは、無い。
(写真は懐かしの図書館です)
文章を書くにも、色々な技術があると思う。自分が好きな文章もあるし、自分が書きやすい文章もある。
また、何も書かない人には文体など無い、というのは前回書いたことだ。
もし、他者とコミュニケーションを取るにあたって、口を使ってはならないというルールがあれば、書かなければ何も伝えることができない。
もちろん、実際の世界では口で簡単に(あるいは、安易に)伝えられるのだから、文章を書く必要なんて無い。しかし、本当に会話のやり取り、言葉のキャッチボールで互いに伝えたいこと、真意などを伝えることができているか?と考える時、僕たちは極めて不安定な舞台の上に立っていると言えるだろう。
ただ伝わっているように感じるだけで、相手は全く別の捉え方をしているかも知れない。わかったふりをしているだけかも知れない。実際、わかったふりをする人、その演技が上手い人はたくさんいる。
そして、伝えたいことの純度は、言葉にした瞬間に濁るというのは、才能のマガジンに書いてきた通りだ。
つまり、まだ言葉になる前の感覚、感情を完璧に言語化、具体化することは難しい。言葉にしても、「ちょっと言いたいことと違うけど、まぁ伝わるよね」という妥協や、諦めが生まれる。自分一人の中でも、それだけの齟齬が生まれるのだから、これを他者に伝えようとするのは至難の業である。
コミュニケーションは、相手の知識、状態にも依存するし、その人の関係値なども大きく影響してくる。本来は、言葉は言葉の通りに受け取るべきもので、言っている相手によって変わるのおかしい。
この中でも、特に「相手の状態」には左右される。昨日までイエスだと返答されていても、今日聞くとノーだった、なんてことはよくある話だ。昨日なら理解できたことが、今日は理解できない。それくらいのことは、日常茶飯事だと思う。
人間関係というものが、こうやって「なんとなく」成り立っているものだとするなら、これほど難しいものは無い。ある意味、人間関係に対する諦めを得ることができる。どうせ誤解や齟齬が生まれるのだから、人とわかり合おうとか、他者を理解しなければならないなんて、是が非でも思わなくなる。無理をすることはない、そんなことは不可能なのだ。
だからこそ、人と尊重し、他者を認め、迫害行為を禁じる。その初心が大切だとも学べる。
ポイントは、コミュニケーションは自分一人では成り立たないということ。お互いに譲歩したり、許したり、相手の言わんとすることを積極的に理解しようとしたりしなければ、円滑にはならない。関係も深まらないし、信用もできない。そうまでしてお近づきになりたい、という相手を探すことだって、難しいはずだ。まぁ、他者と付き合いをする前に、そこまで考えて挑む人も少ないと思うけど。
これは大前提だけど、人それぞれ価値観は違うし、育った環境も、経験も違う。加えて、持って生まれた性質も違うのだから、自分と誰かが合わなくて当たり前だ。争うことは絶対にあるし、腹が立つこともあると思う。
それでも、相手を思いやろうとする気持ちがあれば、関係は成り立つ。これは僕の個人的な意見だけど、人間関係は知性や価値観で決まるのではなく、どれだけ相手を許せるか、思いやれるかで決まる。
それを知性と言うのでは?と言われれば、確かにそうかも知れないが。自分の感情への執着、相手への期待、これを捨てることができれば、人を許す、思いやることなんて簡単になる。それが難しいのだが。
これまた、文章を書く姿勢とはかけ離れた話に思えるが、こういう道理や哲学も、文章を書いていれば身に付く。自分一人でも学ぶことができる。
相手に伝わるにはどうすれば良いか、と考えながら書く姿勢を忘れなければ、書くという行為を通して、色々な学びを汲み取ることができるだろう。「外に出て人と関われ、経験をしろ」と言う人間が多いが、僕はその意見には賛同しない。そんなことをしなくても、家で文章を書いていれば、人に対する優しさや誠実さ、品性を学ぶことができる。それが人間の知性。行為を通して頭を使う、それが一番大事なことで、そこから全てが始まる。
一人で人里離れたところに住んでいる人間は、政治のことも、街のことも、世界のこともわからないのか?そんなはずは無い。
哲学者が一人で思案することは、世界平和につながらないのか?そう言っているのと同じことだ。
大切な「正論」は、誰にでもわかるくらいシンプル。それを何から学ぶか、どのように実践するかは、それぞれの生活の中で考えるしかない。生活の中で実践できない僕たち大衆が、遠い国のことを思っても何の意味も無い。机上の空論、綺麗なだけの幻想である。
ここまで書いてきたことは、文章を書くための姿勢に留まらず、様々なことに共通したものだ。
人は、何かしらの行動を通して、色々なことを学ぶことができる。逆に言うと、実戦無くして学べることは、非常に少ない。
人に優しくしたい、と考えても、実際に人に優しい行動をしなければ、優しく接することは上手くならない。
それと同じように、文章も書かなければ絶対に上達しない。
どんなことでも良い。1週間、毎日1000字、これをできるだけ丁寧に書くことが可能か?やってみると、意外と難しいかも。
いざ、何も書かれていない領域に、「さあ、なんでもいいので何かを書いてください」と言われて、素直に書くことができるだろうか?
日頃から色々なところにアンテナを張り、その物事に対して自分なりの考えを持っていれば、何かしら書くことができるはずだ。原稿用紙2枚と半分くらいなら、絞り出せば何かしら書けるはず。それを1週間、5日でも続けてみる。
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つきのまどの【つれづれゴニョゴニョ】
最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…
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