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集中力について。なぜやるのか?を認識することが大切。

タイトルの時点で答えが出ている。
ここ20年ほどだろうか、日本の教育レベルが海外に比べて遅れている、という評価が標準になった。仮に遅れているとして何が悪いのかはわからないが、それを払拭しようと色々な対策が講じられている。その規模は国家的なものもあれば、作家や心理の専門家などが「勉強の方法」などを書いて出版するようなものもある。
そんな自己啓発的な知識で、自分の能力が上がると考えている人が多いようだ。「集中力を上げる方法」などは、その最たるものではないか。
子供も大人も、集中力に悩んでいる人は、「なぜ集中しなければならないのか」を本気で考えたことが無いのではないか。ちゃんと考えれば、集中しなくても問題が無いということがわかるはずだ。

僕自身、あまり集中力というものを意識したことは無いが、集中したからといって物事がうまく行くのかどうか、よくわからない。社会を見ていると、「自己啓発的な活動をすること」自体が目的のような、嫌な流れを感じる。一部の生徒などを見ていても、そう感じることがある。

自己啓発のために本を買う、セミナに通う、など何をするにもお金がかかる。それ自体が経済活動の一環になっていて、消費者はお金を出していることで満足するし、知識を発する方もそれで稼ぐ。問題は、知識を発する側とそれを受ける側が見ているものに差異があることだ。
というのも、知識を発する方は、本当に重要な部分を隠す。
議論を進展させず、同じところをクルクル回って、そこで稼げるだけ稼ごうとする。もうその分野や話題が飽和状態になるまで、こすり続けるのだ。もちろん、同じことを言い続けるのではなく、同じ概念のものを違う方向から論じることによって、まるで別の概念について語っているかのように見せている。また同じ内容かよ、と言われないように対策をしている。まさしく、お金を稼ぐための思考だ。心の底から人を救いたい、と考えているわけではない。
だからこそ、本当のことは絶対に言わない。これを、搾取と言う。

元も子もないことを言うが、集中しようとしている時点で、自分にとってその対象は集中できる事柄ではないということを、まず知っておくと良い。これは僕自身がそうなのだが、こんな退屈なものに集中などできるわけがない、集中について考えること自体が無駄だと思うのだ。
自分が好きなこと、気分が乗っていることなどは、集中できないような状況でもやるし、とにかくやろうとする。
僕は、一つのことをずっと続けるのが嫌いな凡人だ。だから、仕事をしていてもすぐに他のことがやりたくなる。ひどい時は5分おきにやることを変えている。今取り掛かっている工作を5分やって、また仕事に戻る。仕事に戻ったら、またすぐに工作に取り掛かって、を繰り返すのだ。全く集中していない。他のことがやりたいから、目の前のことに本気になれないのだ。
なぜ、目の前のことに本気にならなければならないのかも、よくわからないが。隣の芝は青い、ではないが、やらなくても良いことの方が楽しそうに見えてしまう。

仕事は、本気とかいい加減に関わらず、やらなければならないからやるしかない。これは集中力の問題ではなく、認識の問題である。「なぜやらなければならないのか」という根本にある道理を見失っているから、「どのように取り組むか」に気が取られてしまうのだ。
人間は自分がやっている行動の動機を、定期的に思い出して、アップデートしていかなくてはならない。これは本当に大事なことだと思う。
子供の勉強は仕事ではないが、大人で言うところの仕事とほぼ同じことなので、理屈としては同じだ。

なぜやらなければならないのか、なぜやっているのかを見失いやすい。見失うか、理解をしていないから、「仕事や学校は辞められない」とも考える。「続けなければならない」という漠然とした感情に支配されてしまうのだ。
ここで、なぜ続けなければならないのか?と考えられる人は良い。そうやって価値を見出すこともできる。
物事や行動には必ずその人にとっての価値があるわけだが、その価値を見失ってしまうと、もうストレスにしかならない。その価値もわからないのに集中が足りない、と言われても、全く的外れな議論だなと感じる。結果的に、イヤイヤ行動することになるわけだが、つまりそれが正解であり、結論となる。イヤイヤ行動できるなら、それはもうやるしかないと理解したということだろう。

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10分もかからず読める。つまり、なんか読書した気になれます。「気になれる」ということが大切。この世の全ては「錯覚」ですからね。

最低でも、月の半分、つまり「2日に1回」更新します。これはこちらの問題ですが、それくらいのゆとりがあった方が、いろいろ良いかと。 内容とし…

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