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双極症も捉え方次第で景色は変わる

こんにちは。はじめましての方ははじめまして。森国司(モリクニツカサ)と申します。

15年以上前、双極症というメンタルクリニックにかかるような精神的な病気だと診断されて以降、自分にとってはこれが純粋に巨大なハンディキャップだと感じられていました。双極症でいても、何も良いことなんてないと思っていました。

躁状態がひどく、入院していたこともあります。その間、現実と妄想の区別がつかなくなり別世界で生きていました。
うつ状態がひどく、長らく引きこもっていたこともあります。読んだことある小説をひたすら何度も読み返すことと寝ること以外に何もできませんでした。
まだ社会に出る前の学生時代にとっては、人生詰んだと思うには十分な絶望的な出来事でした。

そこから、社会人になり、ITベンチャーでがむしゃらに働き続ける中で、周りの方々の助けもあり、自分でも社会で生きていけるという自信が段々とついていきました。小さな成功体験の積み重ねはやはり重要です。

我が家では、私の双極症を単なる病気ではなく私の「特性」として扱っています。より正確にいうと、そう扱えるよう努力しています。
私が自分自身で「自分は病気だから」「自分には障害があるんだ」とネガティブになっていたときに、妻からの提案で、家庭の中だけでも、もっとフラット、できればポジティブに解釈したいという思いで「これは私の特性だ」と考え始めるようになりました。

特性と捉えることは、性格の一つと同じように考えるとも言えます。例えば頑固な人は、自分の頑固さが他人から意固地な人だと思われないように気をつけながら、芯の強い人として振る舞うように努力することができます。
それと同じように、双極症も、投薬などの必要な治療は行なっている上で、気分の波に振り回されてしまわないようにコントロールしつつ、様々な考えの自分自身を活かすことができる楽しい特性だと考えても良いのではないか、ということです。

家族との対話で獲得することができた双極症を自身の特性だと捉える考え方のおかげで、今こうして活動することができています。

病気ではなく特性ととらえる。そんな考え方を裏付けるような表現に出会うこともできました。

躁鬱病は病気というよりも、一種の体質です。心が柔らかく傷つきやすい人たちに多いです。特有の滑らかな対人関係の持ちようは躁鬱病の証拠です。その中心には生き物に対する優しさがあります。この優しさと気分の波とのコードは、DNAの同じ場所に乗かっているでしょう。

『神田橋語録』 p.1

神田橋先生という精神科医の先生が書かれた『神田橋語録』という文章の冒頭です。ここでいう躁鬱病と双極症はイコールです。この文章が執筆されてから現在までの間に病名の呼称が変わりました。
呼び方が変わることで、双極症自体が軽いものと扱われるのではないかという懸念はあると思います。ただ、私個人としては、「病」「障害」ではない名前になったことで、重苦しい一生涯消えない呪縛から解き放たれた感覚になりました。神田橋先生の「体質です」という気持ちのいい言い切りも、私にとっては前向きになるための大きな一助となりました。しかもその体質についての説明も「柔らかい」「滑らか」といった優しい表現で記されています。

私は双極症を「どうにもならない病気」ととらえるのではなく、「DNAレベルで生き物に対して優しくできる美しい特性」だと解釈して、生きていこうと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

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