政治講座ⅴ1417「核保有の是非と核兵器の保守管理の難しさ」
「目には目を、歯には歯を」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。
しばしば「目には目を、歯には歯を」と訳されるが、195条に子がその父を打ったときは、その手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけで、相手にやられた事と同じ事までという上限が設けられた。いわゆる、「目には目を、歯には歯を」という言葉に表される規定は同害報復(タリオ)と呼ばれ、罪刑法定主義の起源とされる。同害報復は古代における粗野で野蛮な刑罰とされてきたが、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち、予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めることがこの条文の本来の趣旨であり、刑法学においても近代刑法への歴史的に重要な規定とされている。
翻って、現在の世界政治は「力」が支配する世界である。いくら理想の「非暴力」を訴えても、現実問題として「力がない正義」は通用しないのである。ロシアのウクライナ侵攻や今回のハマスのイスラエル攻撃においても勝敗を決めるのは軍事力である。そして、中国共産党も台湾(中華民国)への侵略を虎視眈々と狙っている。日本へは尖閣諸島への領海侵犯を繰り返している。そして、その次は沖縄に侵略を考えているようである。侵略された国民の末路は悲惨なものである。残念ながらならず者国家としてのさばっているのは、核保有国であり、始末が悪いことに「核兵器の使用をほのめかし」恫喝しているのである。これが核兵器のない国の惨めな姿である。核兵器を恫喝の道具に使う発言がロシアの指導者に見られる。「目には目を、歯には歯を」の原則に立ち、「核兵器には核兵器を」が外交を進めるために必要であろう。将来の日本の国民の生命・財産・領土を守るためにも、抑止力としての核兵器は必要である。今回は報道記事を紹介する。
皇紀2683年10月12日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
はじめに
核弾頭ミサイルを撃ち落とすレーザー(中性子)線砲などの開発が望まれる。
迎撃ミサイルは撃ち落としの確率が低いので100%迎撃できるレーザー(中性子)線砲があれば、核兵器を無力化できるので、軍事費をそのような防衛兵器開発の為に予算を出してほしいものである。
核兵器の保守管理が難しく、放射線物質は半減期に従い劣化していくので、劣化により臨界状態にならず、ただのロケット弾にしかならないのである。
ロシアの核兵器保有数6255発の保守管理はされているのであろうか。
ロシアのウクライナ侵攻で分ったことであるが、通常兵器のロケット弾の失敗率は60%のようである。つまり、60%は不発弾である。では核兵器はどうであろうか。臨界点を起こす起爆装置が劣化しているならば、核爆発を起こさずに不発弾となる可能性は高いのである。
「いっそ、核武装すべきだと言って辞めてしまおうか」“非核三原則”を生み出した佐藤栄作が周囲にこぼしていた“意外な本音”
会川 晴之 によるストーリー •11 時間
ロシアのウクライナ侵攻開始からもうすぐ2年を迎えようとしているが、いまだ世界各国の対立や緊張は収まるところを知らない。「ロシアは核保有国のひとつだ」というプーチン大統領の脅迫ともいえる声明に対し、唯一の被爆国である日本は「核」とどのように向き合っていけばいいのか。
ここでは、世界の核報道をリードする専門記者が著した『 核の復権 核拡散、核共有、原発ルネサンス 』(角川新書)の一部を抜粋。日本と核をめぐる歴史の概観を紹介する。
◆◆◆
議論の始まり
1945年8月に広島、長崎で原爆が使われて以降、77年間に及び「使ってはいけない兵器」とされていた核兵器。2022年は、それが「使えるかもしれない兵器」に転じた年となった。
きっかけは2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻だ。ロシアのプーチン大統領は開戦を宣言した2月24日の演説で「ロシアは核保有国のひとつだ」と発言し、侵攻を邪魔立てする国々には核兵器を使い報復する構えを見せた。もしかすると、これは歴史の分岐点となるかもしれない。私はそう受け止めた。
これまでも各国のリーダーが核兵器を脅しに使った例はある。例えば、トランプ米大統領は17年、北朝鮮が米国を射程内に捉とらえる大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験を重ねた際に「北朝鮮を完全に破壊する以外選択肢はない」と、核兵器による報復を示唆。さらに18年1月にも、金正恩・朝鮮労働党委員長が執務室の机に「核のボタンがある」と挑発すると、トランプ氏は「私の(ボタンは)は彼のよりももっとずっと大きくパワフルだ。そして私のボタンは機能する」と応酬を重ねた。
「核戦争には勝者はいない」核兵器保有国は共同声明を発表していた
プーチン氏、トランプ氏、金氏の発言は、いずれも核兵器を脅しに使う点では変わりない。ただ、プーチン氏の発言は実際にウクライナに武力侵攻を始めた際に飛び出したという点で、より重たい発言だ。核兵器保有国の指導者が、ここまで露骨な表現で核兵器を脅しに使った例はこれまで無い。
実はそのプーチン氏は、侵攻2カ月ほど前に正反対のメッセージを世界に向けて発出していた。米ニューヨークの国連本部で開幕する核拡散防止条約(NPT)再検討会議(新型コロナ禍を受けて22年1月から8月に4度目の延期)の直前、米英仏中の核兵器保有国とともに連名で「核戦争には勝者はいない」との共同声明を発表していた。
唯一の戦争被爆国である日本の人々も、プーチン発言に激しく動揺する。その代表例は、ロシア軍の侵攻開始から3日後の2月27日にあった自民党の安倍晋三元首相の発言だろう。
「核共有」という言葉が生んだ“誤解”
安倍氏はフジテレビの番組で、ドイツなど北大西洋条約機構(NATO)諸国の一部と米国が採用している「核共有」を日本も導入するかどうか、議論を始めるべきだとして、こう提案した。
「世界はどのように安全が守られているか。日本の国民の命、国をどうすれば守れるか、さまざまな選択肢を視野に入れて議論するべきだ」
安倍氏が触れた核共有は、端的に言えば、欧州などに米国の核爆弾を配備し、有事の際は配備した国の戦闘機がこれを載せて出撃するという仕組みだ。冷戦時代の1950年代後半から始まり、現在はNATOに加盟するドイツ、オランダ、ベルギー、イタリア、トルコの五カ国に核爆弾が配備されている。安倍氏が、これと同様のものを念頭に置いていたとすれば、日本での核共有は、在日米軍基地などに米国の核爆弾を配備し、有事の際は航空自衛隊の戦闘機に搭載するイメージとなる。
この提案は、新聞やテレビのほかSNSでも広がりを見せるなど反響を呼んだ。多くの読者や視聴者にとっては、「核共有」という言葉自体が初耳だったこともあり、誤解を含め、さまざまな解釈が飛び出した。
核武装論につながる主張は、責任感のない幼稚な人たちの考え
安倍氏の提案に、被爆地・広島出身の岸田文雄首相は慎重な構えをみせた。首相は、日本には非核三原則があることを理由に「政府としては(核共有を)議論することは考えていない」と国会で答弁した。ただ「国民的議論があるべきだ。我が国の安全保障に資する議論は行われるべきだと一般論として考えている」とも述べ、安倍氏の政界での影響力を考慮し、党内での議論は容認する考えを示した。
私は、核共有論議の提起は、米国が日本に差し掛けている「核の傘」が、「破れ傘」となり、機能していないのではないかとの疑問を投げかけたものと受け止めた。核共有の議論の行き着く先は、日本の核武装論にたどりつくはずだ。使い物にならない「破れ傘」を諦め、自分の傘(核兵器)を持とうという議論になる。
日本では1960年代後半、米英仏中ソの五カ国以外には核兵器の保有を認めないNPTへの加入をめぐる際も、核武装論が議論になったことがある。自民党のタカ派議員らが、「この条約は不平等だ」と反発し、日本も核武装を探るべきとの主張が飛び出した。だが、日本が核武装を目指せば、核兵器を保有する米英仏中ソが、自分たちの「特権」を守ろうと、総力を挙げて日本の動きをつぶしにくるのは確実と判断し、この議論はついえた経緯がある。主張は勇ましいかもしれないが、核武装を目指せば、日本は世界の孤児となる。核共有については、以下で議論していくが、私の結論を先に述べると、核武装論につながる主張は、責任感のない幼稚な人たちの考えだと思っている。
核共有を考える上での最初のポイントは『非核三原則』
バイデン米政権は「核兵器の役割をできるだけ減らしたい」と考えている政権だ。日本などとの核共有や極東への核兵器再配備にカジを切る可能性は極めて少ないと私は見ている。
とはいえ、ロシアのウクライナ侵攻や、相次ぐ北朝鮮のミサイル実験、そして、中国の目を見張るような軍備増強に直面し、日本国民の多くが不安を感じているのも事実だ。その中で、核共有は日本の安全保障環境の向上に資するのか。検討すべき選択肢は何で、それらには、どんな落とし穴が待ち構えているのか。
核共有を考える上での最初のポイントは、日本の国是である非核三原則だ。核共有を議論する上で、避けては通れない。
非核三原則という考えが初めて打ち出されたのは、67年12月11日の衆議院予算委員会での佐藤栄作首相の答弁だった。佐藤氏は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」と表明、これが後の非核三原則に発展する。佐藤内閣は当時、米国と沖縄返還交渉を進めていた最中だった。米国が沖縄に配備している核兵器をすべて撤収し、日本本土と同様の状況を達成しようと「核抜き本土並み」での返還を目指していた。
首相答弁から4年後の71年11月24日、国会は沖縄返還協定を承認するとともに、非核三原則を国会決議として採択する。以降、非核三原則は国是となる。佐藤氏は74年、非核三原則を導入した功績で日本人では初めてノーベル平和賞を受賞する。
戦後、米占領下の沖縄には多くの核兵器が配備されていた
やや余談となるが、佐藤氏の本音は、非核三原則とはまったく逆にあったようだ。65年1月、ワシントンであった日米首脳会談の際に佐藤氏は「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える。ただし、このことは日本国内の感情ではないので、非常に内輪でしかいえないことである」と述べている。楠田實首相秘書官が書いた「楠田日記」によると、佐藤氏は68年9月16日、料亭に向かう車中で「いっそ、核武装すべきだと言って辞めてしまおうか」と胸の内を吐露した。それに対し、楠田氏が「それはちょっと早いですよ」と諫めたというエピソードが記されている。
話を戻そう。戦後、日本にも多くの核兵器が配備されていた時代があった。正確には、それは、米占領下の沖縄だった。
72年の沖縄返還からすでに半世紀。若い世代の人たちと話すと、米国占領下時代の沖縄の記憶が風化しつつあると感じる。沖縄に米軍の核兵器が多数配備され、極東最大の核兵器配備基地だったという事実も忘れ去られてしまった歴史のひとつかもしれない。
ジョンソン政権時代には沖縄への核配備数は過去最多を記録
沖縄への核兵器配備が始まったのは、54年9月に中国が台湾を砲撃した第1次台湾海峡危機がきっかけだった。それを踏まえ、米国は12月から沖縄・嘉手納基地への核兵器配備を始める。東西冷戦の最前線として、ソ連と激しい緊張関係が続いていた西ドイツへの核配備よりも3カ月早い配備だった。アジアでは51年6月のグアムに次ぐ2番目となる。当時のアイゼンハワー米政権は、核兵器を「使える兵器」と位置づけ、前線に配備する「大量報復戦略」を採用、アジアや欧州の最前線に核兵器配備を始めていた。
アジアでは57年12月にフィリピン、58年1月には韓国、台湾へと核配備が進む。当時、台湾(中華民国)は国連安全保障理事国の座にあった。72年2月のニクソン米大統領の訪中で米中関係が正常化に向かったのを機に、米国は台湾に配備していた核兵器を74年7月までに撤収する。台湾に核兵器が配備されていたという事実は、中国通の記者でも知る人が少なくなっている。
61年1月に発足したケネディ政権時代には、沖縄配備の核兵器の種類が増えた。地対地ロケット弾「オネスト・ジョン」や、無反動砲「デービー・クロケット」、地対地巡航ミサイル「マタドール」など19種類に達した。ベトナム戦争が泥沼化したジョンソン政権時代の67年には、沖縄への核配備数は1287発と過去最多を記録した。沖縄は、極東最大の核兵器配備基地であり続けた。秘密が解除され、ネット上にも公開されている米国の公文書を読むと、米国は沖縄配備の核兵器を、朝鮮半島や台湾有事、そしてベトナム戦争に使う検討を重ねていたことがわかる。
日本で核共有が実現する可能性は薄い
時代を現代に移そう。安倍元首相の発言をきっかけに、自民党にとどまらず日本維新の会や国民党など野党でも核共有の議論が始まった。日本維新の会の馬場伸幸共同代表は、非核三原則のひとつである「持ち込ませず」の削除を議論すべきと訴え、二原則にすることで核共有を実現するとの主張も始めた。一方、自民党と連立政権を組んでいる公明党は「非核三原則」を理由に核共有に反対の姿勢を示した。政府が22年12月に閣議決定した、戦後の防衛政策の大転換となる防衛3文書に核共有は盛り込まれなかった。
広島出身の岸田氏が政権にとどまり、米国でも核拡散を嫌う民主党政権が続く限り、日本で核共有が実現する可能性は薄いだろう。ただ、「独自の核武装はともかく、米国との核共有ぐらいは許容範囲」と考える人も日本の政治家や官僚の中には多く、将来までは見通せない。
(会川 晴之/Webオリジナル(外部転載))
参考文献・参考資料
「いっそ、核武装すべきだと言って辞めてしまおうか」“非核三原則”を生み出した佐藤栄作が周囲にこぼしていた“意外な本音” (msn.com)
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