イラストエッセイ「私家版パンセ」0065 「矛盾の中にこそ真実がある」 20241115
前回、対立概念の中庸についてお話ししました。
中庸と言っても良いのですけれど、対立物の緊張関係があることそのものが、世界の健全な姿だと。
今回は、その聖書バージョンです。
聖書には怒れる預言者の存在があります。神の道から外れた王たちを厳しく糾弾する。そういう批判の精神が豊かにあります。
しかし、同時に全てのことに感謝せよと言います。愚痴を言うより、与えられた恵みに感謝することは、幸福になる秘訣でもありますよね。
パウロは行動ではなく信仰が大切だと言います。善い行いをしたから神に愛されるのではない。神の愛は無条件、無償の愛です。その愛を受け入れること。すなわち信仰が大切なのだと。
しかし、同時にイエスは、良い木は実によって分かるとも言います。実とは「行動」を指します。善い行いが、その人が好い人であることを証明するのだと。
主の祈りは、「み心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と言います。これは、この地上を神の愛が支配する良い世界にしてくださいと祈っているのです。キリスト教徒はこの世界を少しでも良いものにするために、古来、学校や病院、福祉施設を多く建ててきました。マザーテレサの活動も良く知られています。
一方、キリスト教はこの世界には終わりがある、と信じています。終末の日、人間の作り出したものは全て終わり、神の裁きと支配がやってくる。主の祈りでは「御国が来ますように」と祈る訳です。これは、人間が作り出したものは不完全であり、必ず滅びるという確信です。共産主義だろうと民主主義だろうと、哲学だろうと科学であろうと。そうして人間が生み出したものを絶対化することを戒めるんです。人間は究極的には自らを救えない、という徹底したペシミズムがあるのです。
キリスト教はまた、科学の母体となるほどに知的な体系(神学)を生み出しました。唯一絶対の神以外のものを神としてはならない、という教えのもとに、人間を魔術から解放し、真理(神)を探求する姿勢が科学的探究の姿勢の元となりました。
一方、コリント信徒の手紙には、知恵の空しさが語られています。究極的には人間は神を知り得ず、神だけが真理を知ると考えます。
人間は神の似姿と言われます。人間の体は神の霊を持つ神殿であるとも言われます。一方で、人間は塵から生まれて塵に帰る。塵にすぎないのだとも言われます。
聖書には怒り、罰する神がある。一方でキリストは無条件に赦し愛する神です。
聖書は神を見たものはいない、と断言します。
しかし、その時が来るとき、人ははっきりと見るだろうとも言います。
矛盾のように見えます。しかし両方が必要であることは明らかです。
つまり、矛盾した二項対立。対立物の緊張関係の中にこそ真理があるのかも知れません。あるいは真理が人間の前に現れる時、それはどうしてもこのような形をとらざるを得ないのかも知れない。
だとすると人間の健全な生は、かかる矛盾に耐えることの中にのみ存在するのだと言えるでしょう。
分かりやすい断言。単純明快な結論は非常に危ういのです。
キリスト教であっても、このような葛藤がなければ、人間化されていると言わなければならないと思います。
そもそもキリストは十字架上で苦難の表情を浮かべています。それがとりもなおさず救済だと言うのです。復活した神々しいイエスではありません。十字架上のイエスでなければならないのです。