イラストエッセイ「私家版パンセ」0066 「苦難の意味」 20241119
「夜と霧」の著者で心理学者のフランクルは、「苦難の意味」を問うことが大切だと言いました。
人生には良いことも悪いこともある。楽しいことも苦しいこともある。悪いことや苦しいことが自分にとって何の意味があるのかを問わないとすると、人生の意味の半分しか知らないことになる。という訳です。
苦難は忘れてしまいたいものです。できれば人生にない方がよい。苦難の意味と向き合うことは、できればしたくない。けれども心理学者のフランクルは、それと向き合うことで初めて、乗り越えられると考えました。
こういう考え方は、一神教に独特のものだと思います。
善悪の二元論、あるいは日本のように八百万の神々がいる社会では、悪いことは悪い神が引き起こしたことであって、そこには悪意しかありません。苦難は祟りや因果応報などの概念を用いて合理化することができます。
ところが、一神教ではこの世界に起こる全てのことに意味がなければならない。神意がなければならない。自分の人生に起こったことは、良いことも悪いことも、そこに神の意志があることになる。
これは「神義論」といい、一神教の国では大問題です。この問題を正面から扱ったのが旧約聖書の「ヨブ記」です。
ユダヤ教の神ヤハウェはもともと一民族の民族神でした。イスラエルがバビロニアに滅ぼされた時、当然滅びるべき宗教でした。というのも、古代において戦争で敗れるということは、その民族の神も敵の神によって滅ぼされたと考えるのが普通だったからです。
ところがユダヤ人たちはここで天才的な発明をします。それは、「天地創造の神」「全知全能の神」という一神教の概念です。国は破れたけれど、神は破れていない。天地創造の神は他の神々をも創造した神である。バビロニアに敗れたのは、その神の意志であった。
余談ですが聖書学では、旧約聖書の創世記の第一章は、この新しい神学的立場で書かれたもの。第二章は古い民族宗教時代の伝承がそのまま記されたものとされています。
恐らくここから「苦難の意味を問う」という発想が生まれたのだと思います。
キリスト教の時代になると、神は「義の神」から「愛の神」へ変貌を遂げます。それでも神義論の問題は変わりません。むしろ大きくなったと言えるかも知れません。「自分の苦しみは、神の正義によるものだ。」という考えから、「自分の苦しみは神の愛なのだ。」となるのですから。
ぼく自身の経験から言うと、ぼくの人生は全て、神の愛の中にあったのだと思います。良いことも悪いことも含めて。
ここに、有名な詩をご紹介します。「病者の祈り」という有名な祈りです。
勝利者になれるようにと強さを祈り求めたが
謙遜と従順を学べるように弱さを授かった
より大きな事ができるようにと健康を求めたが
より相応しい事ができるように病弱を授かった
幸せになれるようにと豊かさを求めたが
思慮深い者となれるように貧しさを授かった
人々の称賛を得られるようにと力を求めたが
神の前にひざまずけるように無力を授かった
人生を楽しめるようにとあらゆる事を求めたが
あらゆる事を楽しめるように人生を授かった
祈り求めたものは何一つ与えられなかったが
私の本当の望みはすべてかなえられていた
私が言葉にしなかった祈りはすべて聞かれていた
私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福された者である
苦難の意味を問うことはとても大切なことだとぼくは思います。しかし一つ注意しなければならないことがあります。
それは、この考え方は、あくまでも実存的に理解されるべきだということです。
あくまでも「自分の人生にとって」の意味なのです。
他人や世界に起こる苦悩や不幸に意味があると言うことは誰にもできません。これは普遍的な真理ではなく、実存的な真理なのです。
自分の人生との向き合い方であって、他人の人生の評論ではありません。これを間違うと、大変恐ろしい失敗を犯すことになります。例えば、戦争で死ぬことは意味がある、などという。ヒットラーはこの論理を用いたんですよね。