「だれにでもわかる言葉で、たいていのことはできる」【1000字と1枚】
これは糸井重里さんの言葉です。大学4年生のときに兄がこの言葉を収録している『ボールのような言葉』をプレゼントしてくれました。文庫のこのページには当時よく噛んでいたキシリトールガムのボトルに入っている緑の紙を付箋がわりにして貼ってあります。
「そうか、かんたんな言葉でなんでもできるんだ。」
シンプルに当時のぼくのからだにその言葉はすうーっと浸透していきました。そこから文章の書き方が少しずつ変わっていった気がします。なるべくむずかしいことはせず、かんたんな言葉で書くことを心がけるようになりました。いまも頭の片隅にいつも置いている言葉です。
ぼくは大学生のころから本を能動的に読み出して、それと同時にじぶんは文章を書くのがわりと好きかもしれない、と自覚しました。と言っても、こうしてWEBでなにかを書いたりSNSでなにかを発信するなんてことは自意識過剰な当時のぼくにはできなかった。手帳に簡単な日記を書いている時期もあったけれど、アウトプットの場はもっぱら大学の課題のレポート(笑)。長いレポートでもぜんぜん苦じゃなかった。当時は町田康さんとか椎名誠さんを一生懸命読んでいたので、おふたりのマネをしたような文章を書いてたと思います。大学のレポートで(笑)。
かつてのぼくの文章は、家系ラーメン屋で味濃いめ油多めを注文して、そこに胡椒やニンニクだけじゃなく、醤油もソースもマヨネーズもポン酢もタバスコもかけちゃうような味付け過多な文章でした。当時はそれでよい、というかむしろ、それがよいとさえ思っていました。それこそがぼくの個性だ、文体だと思いこんでいたんですね。冒頭のクソつまらない導入、寒すぎる自分ツッコミ、とってつけたような言い回し、これ見よがしな比喩……。当時のレポートは恥ずかしくて読めません。この文章だって何年か経ったら恥ずかしくてたまらなくなるでしょう。
いろんな人が言っていることだと思いますが、個性は出すものじゃなくて出るものですよね。じぶんの個性を出さなきゃ、じぶんの文体で書かなきゃと思わなくても、それはしぜんと出るものなんだと思います(もちろん「しぜんと出る」ようにするためにやるべきことはあると思うし、技術も重要だと思っています)。
当時のぼくは一生懸命に個性を出そうとしていました。もうその時点でそれはほんとうじゃない。うその個性です。うその個性の、味濃いめ油多めの文章はちょっと読むに耐えない。読んでいる途中でしんどくなる。
SNSでフォローしている、ぼくがとてもいいなあと思う写真を撮る人がいます。その人はふつうのお父さんです。写真を仕事にしているわけではぜんぜんありません。その人の写真と同じくらい好きなのが、その写真に添えられている言葉です。
背伸びも、変な味付けもしてない。誰かのマネみたいなものも感じられない。言ってしまえばふつうの言葉なんです。でも、その人の人柄のよさとか、娘さんたちとよい関係を築かれている感じがじゅうぶんに伝わってきます。それが、結果としてその人の個性であり文体になっているんだなあと思います。
SNSでバエるとかバズるとか、味濃いめ油多めなものが身のまわりに溢れているいま、この人のようないい具合の投稿をできる人はなかなかいないと思う(ぼくの主観だけど)。実際、いいねやスキをたくさんもらうような、そういうものとはちょっと遠いところにあるものかもしれない。でもぼくはすごくいいと思う。忘れてはいけないことだと思う。「だれにでもわかる言葉で、たいていのことはできる」の言葉をあらためてかみしめました。