サブカルクソ野郎がした、花束みたいな恋について。
「花束みたいな恋をした」の二人が履いている"ジャックパーセル"は、私にとっての"オニツカタイガー"だった。
「花束みたいな恋をした」は、坂本裕二脚本の、今をときめく麦役・菅田将暉と絹役・有村架純の恋愛映画だ。説明もいらないくらい流行したけれど、この映画には主人公二人だけが分かり合える固有名詞がたくさん出てくる。好きな映画監督、好きな作家、そしてお揃いのスニーカー。このスニーカーは、ジャックパーセルという名前だ。この二人の、ありえないくらい痛くて、ありえないくらい愛しい、最高にクソな恋愛を、わたしもしたことがある。
恋の始まりはオニツカタイガー
わたしが恋に落ちたその人は、映画が大好きで、誰よりもお洒落で、センスが飛び抜けていい人だった。
私たちの恋の始まりは、そう、オニツカタイガーだったのだ。
大学に入学したての頃のわたしは、田舎から出てきた芋っぽい女の子だった。地元でよく行く場所はヴィレッジヴァンガードとライブハウス、そして穴場の古着屋。地元になぜかあったオニツカタイガーで買ってもらったスニーカーは、同級生と被りたくないわたしにとって勲章。読んでる雑誌は装苑で、たまに映画特集のpopeyeを買った。好きな作家は、太宰治と江國香織。好きな映画はAKIRAで…なんて、いくらでも並べられるけれど、同じ匂いがする人間なら、きっともう分かる。
この世には二種類の人間しかいない。
サブカルクソ野郎か、じゃないかだ。
そんなサブカルクソ野郎のわたしが初めて出会った仲間が、彼だった。彼と初めて会った日、わたしのスニーカーを見て、彼はこっそりいいな、と思っていたらしい。告白されたのは彼の家で、映画パルプフィクションを観ながら、彼が作ってくれた真っ青なカクテルが脇役。もちろんライム付き。
今思えば、この時点でお腹いっぱいなくらいサブカルクソ野郎だ。
そして彼の本棚を初めて見た時、運命を感じた。だって、太宰治の「斜陽」も、つげ義春の「ねじ式」も、夢野久作の「ドグラ・マグラ」だってあったんだもの!今じゃTikTokで何度も紹介され、サブカルの教科書みたいな本ばかりだけれど、その頃はわたしのツインレイはここにいたんだな、と本気で思った。
わたしたちは、ずっとそうしてきたかのように、二人で"ここにしかない春"を駆け抜けた。
押井守が好きなわたしと、ホドロフスキーが好きな彼。二人でよく観たのはデヴィッド・フィンチャーとクリント・イーストウッド。街の小さな映画館の、ふかふかの真っ赤なシートに座って、何度も夜を過ごした。
夏の暑い盛りでも、お互い腰に手を回して歩いた。眩しくもないのにサングラスをかけて、古着屋をいくつも巡った。掘り出し物のバンドTシャツを見つけるたび、ハイタッチした。
初めて彼がくれたレコードは、ジャニス・ジョプリンのグレイテストヒッツ。彼が振るシェイカーのリズムに、彼女の声はよく似合う。出来上がったカクテルを飲みながら、電気グルーヴをかけて踊った。そして、山奥のフェスでスパイスカレーを食べながら鎮座Dopenessのラップを聴くデート。
美術館にも写真展にも行って、帰りには決まって喫茶店でコーヒーを飲む。彼はよく銘柄を変えたけれど、わたしはずっとハイライトのメンソール。二人で煙草を吸って、何度も喧嘩して、何度も愛を伝えあった。
ここまで書いて、正直に言うことにした。
わたしは「花束みたいな恋をした」が大っ嫌いだ。
花束みたいな恋をしたは、クソ映画
だって、あの頃のわたしたちを思い出してしまうから。若く、平気で人を見下し、自分たちが一番センスがいいなんて調子に乗っていた、かけがえのないあの頃を。恥ずかしくなるくらい自分たちしか見えていなかった、幼く、馬鹿で、愛しい、青春の黒歴史を。
主人公二人のように、わたしたちの恋もありふれた終わりだった。
就職活動を目前に、将来に対する考え方も価値観も合わなくなって別れた。解散理由は、いわゆる"方向性の違い"だ。
もちろん湖ができるほど泣いたし、別れた日はカラオケで、ネバヤンの「お別れの歌」を歌った。ありふれてるでしょ?
でも、人生で一番の大恋愛だったと思う。
夜明けまで映画を観た後、見つめ合って抱き合って。彼の香りに包まれて、クセのある髪の毛を撫でながら眠る。目覚めた頃にはもう昼過ぎで、手を繋いで近くのラーメン屋さんに。キスできないじゃん!なんて笑いながら、二人してニンニクをたくさん入れる。満腹になったお腹を抱えて店を出ると、夏と秋の匂いがはんぶんはんぶん。少し冷たい風に、ぎゅっと手を握り直して、もう夕飯のことを考える。そろそろお鍋始めしようか、とスーパーへ。発泡酒でも愛に酔えた、閉じ込められた記憶の、夕方。
麦くんと絹ちゃんを観ていると、むず痒くて、切なくて、恥ずかしくて。
押井守を神だと言い、「ショーシャンクの空に」やアニメ・漫画の実写版しか観ていない人を馬鹿にする、共犯者。今村夏子が生む仲間意識と、パズドラであっけなく壊れる関係性。
あらゆるところに散りばめられている固有名詞の強調に、恥ずかしっ!気持ちわる〜!!!と叫びながら、指の隙間からしか観られなかったこの物語。
死ぬほど共感して、死ぬほど自分の過去で、死ぬほど愛しい思い出たちだったから、わたしはこの映画が大っ嫌いなんだろう。
物語は終わらない、日常は続く
麦くんと絹ちゃんは、この映画が終わっても、人生を生きてゆく。特別な人間だと思っていた、才能があると思い込んだ、選民思想にまみれた自分自身に挫折した後も、生きてゆくのだ。適当を覚えながら、それなりを覚えながら。
わたしも、物語の続きを生きている。今は愛に溢れた、サブカルなんて1ミリも知らない、心優しいオタクと結婚した。そして才能なんて無いと気づきながら、天才にはなれないままで売れない作家を続けている。
夫といると、しずかちゃんのパパがのび太くんのことを「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。 それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね」と言ったことを思い出す。
「世界で一番格好よくて、愛し合ってる素敵な私たちを見て!」なんて、自信に満ち溢れていた"最強の恋"は、もういない。
けれど、今は格好よくもお洒落でもない"普通の愛"がある。半額の刺身に喜んで、すっぴんのままジャージで過ごす、何よりも大切で愛おしい日常が。
趣味も違えば好みも違う。夫は映画監督も作家も知らないし、今村夏子のピクニックを読んでも「訳がわからん」と言うだろう。
ハングオーバーが一番好きな映画だという、信じられないくらい趣味が悪い夫と、死ぬまで一緒にいたい。
そして、花束みたいな恋をしたあの頃の私と思い出を、心の片隅で永遠に愛しながら、生きてゆこう。
多分一生認めないけど、この映画に抱く想いは愛だから。
こんな最高のクソ映画の脚本を書いた坂本裕二に、最大限の愛と敬意を込めて。
わたしは今日も、オニツカタイガーを履いて、物語の続きを走っている。