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スクリーンの向こう側

ブザーが鳴れば、真っ赤なビロードの幕が開く。徐々に暗くなる照明、ぱっとついた光が物語を語りだす。赤く染まる夕陽に恋人たちの影、ジャングルを駆け抜ける冒険者、真っ青な海に飛び込む犯人と刑事。フィルムがめぐれば物語も巡る。瞳にまぶしいほどの光を反射させながらみんな釘付けになる、そんな場所。

これは街のちいさなミニシアターで働き出したわたしの、なんてことのない日々の話。



その映画館と出会ったのは、小さな頃だった。おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんも昔はよく通ったという小さな映画館。憧れだけを募らせて、何年も勇気が出なかったあの頃。17歳、ようやく訪れた映画館は、小さくあたたかい美しい場所だった。並ぶ真っ赤な座席に、そっと腰掛けたことをよく覚えている。まさか何年も経って、自分がそこで働くことになるとは思わなかった。

わたしの初日は、離婚報告から始まった。面接を受けた時点では結婚していたせいで、結婚時の姓で登録されてしまっていたからだ。「あ、あの!離婚しました、名前違うんです」挨拶するたびに言い回って、なんだか新手のセールスみたいだと笑ってしまう。「あらあ、まあ人生いろいろよねえ」とおっとりしたやさしいパートさんに言ってもらえてほっとする。

映画館の仕事はさまざまだ。ポップコーンを売る、パンフレットを売る、もちろんチケットのもぎりも。わたしが働く映画館は小さな老舗の場所なので、一人で店番をするのが基本らしい。わたし一人でポップコーンもチケットも売るの!?と怯えたのだが「大丈夫!すぐにできなくてあたりまえだからね」とみんなが笑顔でいてくれるから、優しさに泣きそうになる。

覚えることは細かくて、たくさんあるけれど慣れれば楽らしい。と言っても覚えの悪いわたし、とんでもないミスばかり犯す。1万円を100万円と打ったり、入場特典を忘れそうになったり、レジにピーピーSOSを言わせたり。ハア…と落ち込むたび、「間違えてくれるたびに、わたしも勉強になるからほんとにありがたいよ〜がんばってるよ!」とパートさんが言ってくれる。

みんなが「新人はミスするもの!」と言ってくれ、それぞれが自分がやったことのあるミスをこっそり教えてくれる。わたしが笑うとみんなにやっとして大丈夫だよ、と言ってくれるから、わたしは世界のことを簡単に信じてしまえるのだ。

バタバタばかりの初日、一番嬉しかったことがある。やさしいパートさんが、「今日は上映チェックをするから、座席に座ってて」とウインクしてくれた。どういうことだろう?と思いながらシアターの真ん中にそっと腰掛ける。あの頃と同じ、真っ赤なシートに腰掛けていると、胸が自然と高鳴りはじめる。

大きなブザーの音が鳴る。ビロードの幕が開いて、光り始めたスクリーン。物語が流れ始め、世界が色づいてゆく。わたしはあっという間に釘付けで、瞳は光を反射するように輝きだす。朝8時、誰もいない劇場の真ん中。わたしだけが独り占めする物語は、なんて美しくて、なんて、面白いんだろう。

そっと隣に来たパートさんが「うちの映画館へ、ようこそ」と笑ってくれる。ああ、わたしの人生が映画なら、このシーンがハイライトだ。そう思った。

映画館でのバイトを始めて2ヶ月。本屋さんでも働き、映画館でも働いている。そんな日々は愛おしいきらめきで溢れて、プリズムのように光っている。 



映画館での楽しいひと時は、実は「シニアでよろしいですか?」と料金を確認するときだ。おじいさま、おばあさまたちのウィットに富んだ返事が聞ける瞬間である。

「実はね…」「残念ながら…!」「今のところはねえ」「見ての通りなのよ」

それぞれの違う答えを聞きながら、くすくす笑ってしまうわたしに、みんな少し眉を下げて笑ってくれるのが楽しい。シニアですか?と確認するのはなかなか勇気がいるけれど、わたしは今のところ怒られてはいない。

それになんといっても、うちのミニシアターはセレクトがいい。おじいちゃんの館長さんが、毎日いろんな映画をみては選んできてくれる。福利厚生として、全作品無料で観られるバイトの身としては、セレクトに感動しっぱなしだ。

地元で愛され、おじいちゃんおばあちゃん、時には若い学生の子達が遊びにきてくれるこの場所。末長く、ただ、続いて欲しいと願っている。



映画は魔法だ。知らない世界、知らない時代に連れて行ってくれる。想像の羽を思い切り伸ばして、ピーターパンとともに宇宙旅行。時は海賊と冒険し、ピラミッドで愛を叫ぶ。殺人ミステリーに巻き込まれて、チェーンソーで追いかけ回される。むちゃくちゃで、それが楽しくて、わたしたちをどこへでも連れてってくれる、そんな魔法。

魔法の効力は長い。わたしたちの人生を変えることもある。映画に魅せられて、映画館を愛して。そんな風に生きてこられたことが愛おしく、わたしの心はいつだってニューシネマパラダイスだ。

映写室から座席を見下ろせば、みんながスクリーンに釘付けの姿が見える。この映画館で、わたしの新しい物語がはじまる。転んでばかりで、何もうまくいかない日常。それでもやさしい人たちが登場してくれる。物語は始めからハッピーなんてつまらないから。紆余曲折も、失敗もぜんぶ、ハッピーエンドを迎えるために必要なこと。そんな風に思えたら、わたしが主人公の物語も美しいものにきっとなれる。わたししか書けない脚本は、明日も続いてゆくから。

ハッピーエンドに向かって、わたしは転びながら走ってゆくよ。今日も、明日も、明後日も。

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