「本を読む」を立ち止まって考える
通勤電車の時間が長いので、よく本を読む。
よく本を読んでいるんだけれど、最近は「読みたい!」と思って読んでいるのかは、疑問だ。
電車の中で寝てしまったり、スマホばかりいじってしまったりするのは、なんだか時間が勿体ないと思ってしまい、その穴を埋めるかのように読んでいる気がする。
いまの僕には「読みたい本」なんてのはあんまりなくて、SNSで紹介されていた本や、ナントカ大賞とかを受賞した本などを中心に手をとっている気がする。
そうやって選ぶ本は、自分の趣向の外にある本が多いので、自分の幅を広げる一助になっている反面、内容が入ってきにくいのが正直なところ。
やっぱり読書っていうのは、やらされるものでも、嫌々やるものでもなく、自分の興味のあることや知りたいことを中心に読むのがやっぱり良いよな、と思う。
僕の悪い癖なのだけれど、ビジネス書や自己啓発本ばかりを読んでいると、なんだかダサい気持ちになってくる。
だから少しだけ背伸びをして、哲学書や古典なんかを読みたくなるし、実際に読んでみるんだけど、大抵は難しくって瞼が重たくなる。
けれど、そういう時は立ち止まる。
あれ?これって、誰のための読書だっけ?って。
確かに岩波文庫を読んでいる人を見ると、なんだかカッコいい。
サルトルやルターを語られると、頭ええな〜ってなる。
で、負けじと僕も難しい本を手に取る。
でも、それって本をファッションにしてるよね。と客観的に見て思う。
誰かから見てカッコいい、とか知的だね、とか思われる読書でなくて
「なんだこれ!!おもしれぇぇぇぇ!!」
と心から絶叫できる読書をしたいし、
「そうそうそう!!このことが知りたくて知りたくてどうしようもなかったんだ〜!!!!書いてくれてありがとう〜!!!」
と好奇心と感謝を爆発させてくれる読書がしたい。
読書に義務感やファッション感や、飽き飽き感がある時っていうのは、読書の目的を見失っているとき。
実は、読書というのは別に何も与えてくれない。
なぜなら、人は無意識に自分が求める部分だけを読んでいるから。結局、自分が欲しいところだけ選び取っている。
自分が読書に求めるものに無自覚な人ほど、読書は退屈で面白くなくなる。
読書がつまらなくなってきたら、一度立ち止まる。ひとの本を開くより先に、自分の中にある本を開く。
自分が本当に求めてたり、困ってたり、知りたいと思っていることってなんだっけ?と、聞き直す。
それを繰り返して自分の好奇心が明確になってきたとき、再び読書は力を取り戻すのだと思う。