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井上荒野『あちらにいる鬼』|小説である意味がありすぎる小説



小説家 白木を愛した正妻 笙子と愛人みはる。3人の生涯におよぶ物語。笙子とみはるの2人は、お互いに白木の“あちらにいる”存在を認めながら、白木を介して形容しえない関係を築いていく。

正妻 笙子はあちら側に、白木が心を許している愛人がいることをなんとなく感じている。

一方でみはるは、あちら側の正妻 笙子が、白木にとってどれだけ大切な人かを感じ取っている。両者が両者とも、不倫という形態の道徳的逸脱を認識しながらも、白木にとって両者が必要であると、暗黙に関係を承認していく


生涯で、どうしようもなく愛おしい人が現れたら、それは本当に幸福なのかな。この物語を読むと、愛なんてものがますます分からなくなっていく。もともと日本に「愛」なんて言葉がなかったことに納得できる。


“愛が、人に正しいことだけをさせるものであればいいのに。それとも自分ではどうしようもなく、間違った道を歩くしかなくなったとき、私たちは愛という言葉を持ち出すのか。”

あちらにいる鬼 p.114


2人を見ていると、なんだか呪いに縛られているようにも見える。どうしようもなく自分の中に白木が入りこんでいて、もう切り離せないような。

そうならばむしろ能動的に、あえて茨の道とも言えるような『愛の道』を自ら選ぶ。そうやってどうしようもなくなった関係を、あえて能動的に意味づけることは、強さとも言えるし弱さとも言えるような気がした。


とある本で、利他とは「他者の大切なものを大切にするために自身を変えること」。一方で呪いとは「自分の大切なものを大切にするために他者を変えること」だと学んだ。

恋だとか愛は、その作用によって自分を強制的に変えられてしまう呪いのようでありながら、「それでも共にいる」ことを自ら選ぶ、自己変容を含めた利他が内在しているのではないか。

変容を強制される不自由さと、自ら変容を望んでいるという利他が複雑に入り混じったものが愛なのではないか。


でも、本当のところは誰にも分からない。だから小説なのだろう、と思う。この関係に名前をつけることはできない。白木を愛した2人が何を分かち合ったのかを、私たちが完全に理解することはできない。


この小説は、著者の井上さんのお父様と瀬戸内寂聴さんの不倫関係をモデルにしたものだという。井上荒野さんをとても誠実だと思うのは、彼女らの心情を「かなしい」とか「うれしい」だとか、安易な言葉で表現しなかったことだ。

それは井上さん自身も、登場人物らの心情が分からないからだろう。分からないものをちゃんと分からないまま作品に仕立てあげた。むしろ、分からないまま書くことで、分かろうとした。だから、この本はすごい。

小説家 白木を愛した正妻の笙子と愛人のみはる。
他人には到底理解できないこの関係のかたちは、小説である意味がありすぎます。



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