誰だってきんもいししんどい |『舞台』
先日、人のすすめで西加奈子さんの書かれた『舞台』という小説を読んだ。
この小説は、主人公の葉太がニューヨークへ旅行に行き、そこで所持品が入ったバッグを盗まれたことから、自分自身と、そして父とのトラウマと向き合うことになる。
というお話。
葉太は、人前で演じることも、本性を晒すことも恥じている人間だ。
誰かの期待を邪推して、その人が望むような行動をとったりすること、逆に本性を晒しすぎる人のことを軽蔑する人間だった。
そして、何より葉太の軽蔑対象は自分自身だった。
だって、一番演じてしまっているのは葉太自身だったから。
ニューヨークで、文なしとなり、頼るものがなくなったことで、葉太は演じる自分と、醜い本性の自分とせめぎ合うことになる。
このせめぎ合いと結末の折り合いがこの小説の肝だ。
*
さて、この小説から僕が学んだことは、
『誰もがきんもい』ということ。
実は、僕には葉太の気持ちが少しわかった。
誰かの期待を勝手に悟って、期待される行動をとった時、それによって相手がより喜んだり、より哀しんだりするのを見ると凄く虚しい気持ちになった
歳を重ねるにつれて、誰かの期待を察知しても、その期待に応えないように行動した。その気持ちに反抗するかのように。
それでも、自分自身の本性を晒すことは出来なくて、社会と摩擦を生まないように、社会用の自分を「演じて」いたのだ。
自分から「演じる自分」をとった時、とても怖くなる。もしかして、なにも無くなるんじゃないかって。
いや、それどころか、とてつもなく醜い自分が垣間見えてしまうことに怯えるのだ。
演じなくなったら自分が、とてもきもくなりそうなのだ。
でも、きっと誰しもが『きんもい』のだ。
ああ、こんな感情をもってしまった。
ああ、こんなふうに考えてしまった。
どうしようもない人間だ。
きもちわるい。
そんなふうな自分に出会ってしまったことが、誰だってあるはずだ。
きっと、誰もが社会という『舞台』の上に立っている。そして、誰もが演じている。
しまいには、演じている自分と本当の自分の境界が分からなくなっちゃってる。
大事なことは、
ここが『舞台』であるならば、『舞台』からちゃんと降りることも出来るよ、ということを知っておくこと。
それは諦めるとかそういうんでなく。
自分の“本性”みたいなものを否定することも、恥じる必要もないってことです。
自分のきもちわるさを否定したくなるのはきっと、『舞台』の上で演じすぎてるから。
僕たちは演じる練習よりももっと、『舞台』から降りる練習をすべきなんだと思う。
醜くて、きんもい自分ととことん向き合う。
自分の本性と向き合えるから、『舞台』でまた演じられるんだ。
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