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鳥たちのさがしもの 10

少年は追憶を探していた。住む人のいなくなった蔦の絡まる御影石の洋館。いよいよ取り壊しが決まったと母が嘆いていた。石畳の坂道に夕陽が影を落とす。船が汽笛を鳴らして、港を出て行く。どこかで猫の鈴が鳴った。

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-夜鷹のさがしもの・夏-

 船の汽笛が聞こえて、夜鷹は海の方を振り返った。石畳の坂道は既に夕方の光を受けてオレンジ色に輝いている。そこに、古い洋館が影を落としていた。この洋館は間もなく取り壊されるのだと母親が嘆いていた。どうせすぐに夜鷹たちは渡米するのに、おかしな話だ。
 湘南港を出たばかりの船が小さく見えた。先程の汽笛はあの船だろうか。あの船は、どこへ向かうのだろうか。
 アメリカは遠いね、と燕は言った。確かに遠いと夜鷹も思う。しかし重要なのは物理的な距離ではなく心理的な距離だとも思った。
 すぐに会うのは難しいが、その気になれば毎日連絡を取ることだってできるのだ。そして、自分からは決してそうしないであろうことを自覚してもいた。
 孔雀も東京に引っ越すのだということを、昨日孔雀自身の口から聞いた。自分もまだ心の整理ができていないのだという孔雀の話を聞いて、さすがの斑鳩も今回ばかりは神妙な顔をしていた。そして燕はこちらが気の毒になるくらいに落ち込んでいた。
 なんだかんだ言っても一番安定感のある雲雀が、斑鳩に代わって孔雀の話に相槌を打ったり質問を挟んだり、燕を慰めたりして、なんとか夏休み最終日に会う約束をして別れた。
 夏の終わりの雰囲気と、間もなくやってくるであろう別れの予感が、五人の間に決定的な影を落としたのは確かだった。
 古い洋館の影を見ながら夜鷹は記憶をたどる。
 初めて孔雀と話した日のことを、夜鷹は正確に記憶していた。
「藍炭がバスケするところを見てみたいんだ。ちょっと付き合わないか?」
 自分でも話しかけにくいだろうと思う雰囲気を纏った夜鷹に、孔雀はごく自然な態度で、何の気負いもなく話しかけてきた。夜鷹は先ずそのことに軽く驚きながら訊き返した。
「どうして俺なんだ?」
「さあ。そう訊かれても困る。誰かに興味を持つって理由が必要? うーん、どうしてもって言うなら、そうだなあ、藍炭は絶対に運動もできると思うんだ。直観ってやつ?」
 その真っ直ぐな反応に、夜鷹も興味を持った。確かに孔雀の言うとおり、興味を持つのに理由は必要ない。だから承諾した。そしてその時出会った他の三人も、それぞれ興味深い性質の持ち主だった。
 自分を含めた五人の共通点は、人との距離の取り方だと思う。一見デリカシーが無さそうな斑鳩も、実は人によって無意識に距離感を変えている。孔雀に至っては天才的だ。燕はどちらかと言えば身を引きがちだったが、それは引っ込み思案というよりは”わきまえている”という感じを受ける。そして夜鷹は、雲雀の観察眼にも一目置いていた。雲雀は他人のことをよく見ている。その雲雀から、話がしたいと言われていた。珍しく二人での待ち合わせだ。
 夜鷹は”追憶”を思わせる洋館と”夕陽”を写真に収め、待ち合わせの場所に向かった。

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少年は源を探していた。小川にかかるコンクリートの橋。錆の浮いた欄干。川面で光が跳ねて踊る。せせらぎは遠く、軽トラがタイヤを軋ませて通り過ぎた。見下ろした河原ではエノコログサの一群れと猫が格闘していた。

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 滑川なめりがわの源流が意外と近くにあることを知る人は少ない。小さな川だ。知ろうとする人も少ないだろう。実は鎌倉霊園の中に在るのだ。
 この川はほぼ金沢街道沿いに沿って流れているので、源流までバスで行くこともできる。しかし夜鷹は途中でバスを降りてそこから歩くことにした。一番の目的は東勝寺橋とうしょうじばしだ。ここは鎌倉景勝地百選にも選ばれている古いコンクリートの橋で、その正確なアーチと源流付近の緑あふれる川との組み合わせが美しい。
 夜鷹が雲雀から受け取ったキーワードは”源”と”橋”。歴史が好きな雲雀のことだ。鎌倉で”源”といったら源氏を差しているのかもしれない。しかし夜鷹は敢えてそれを外したかった。
 河原では揺れるエノコログサに猫が戯れていた。長閑のどかな夏の風景だ。
「変なこと訊くかもしれないけど、夜鷹が今一生懸命になってるものって何?」
 昨日の夕方、雲雀は海を見ながらそう尋ねた。
「どういう意味で?」
「斑鳩はギター、孔雀はバスケ、燕は本。俺は……特に何も無いんだ」
「ああ」
 それを雲雀が気にしているというのが少し意外だった。夜鷹が、俺も特に無いよと答えると、今度は雲雀が意外そうな顔をした。夜鷹は思わず笑いを漏らした。
「雲雀が俺のことをどう思っているか知らないけど、俺は何かを目指して今の自分になったわけじゃない」
「ごめん」
「何で謝る?」
「夜鷹のことを知りもしないで、勝手に夜鷹はしっかりしてるって思っていたから。そしてそれが、少し羨ましかったから」
「謝らなくていい。それに、しっかりしているように見せようと思っていたのは確かだ」
「……そうか。ごめん……いや、今度のは、夜鷹はそういう話はしてくれないかと思ってたんだ。だから今まで訊こうともしなかった」
「雲雀だからだよ」
「え?」
「雲雀だから話してる」
「俺?」
「そう。雲雀は、考え方がフラットで、変にうがった見方をしない。何を話しても、きちんと受け止めて反応をくれる。勢いが強いものにも流されない」
「……そんなこと、初めて言われた」
「俺は、ただ早く独り立ちしたいんだ。何がしたいっていう訳でもない。やることは何でもいい。打ち込めるものはその時になれば分かるだろう。だから、今できることをやってる。それだけだよ」
「ああ、それは……似てるかもしれない。レベルは違うけど。……いや、やっぱり違うな。俺は、ただ単に目の前のことをそれなりにこなしているだけだ。だから、今、自由にしていいと言われたら何をしていいか分からない」
「自由、か」
「うん。夜鷹は何をする?」
「そうだな。今なら、バーチャルな世界を創る。ネットに繋がっていれば、物理的にどこに居ても会えるような」
「ほら、すぐに出てくる。……でもいいな、それ。それなら、夜鷹のアメリカ行きも孔雀の東京行きも何の問題もない」
「そうか? 今だって、オンラインゲームの世界ではあるだろう? そういうの」
「それは、まあ」
「とりあえず言えることは、雲雀は別に急いで何か探さなければならないわけではないと思う。そのうち何か見つかるさ」
「夜鷹に言われるとそんな気がしてきた。単純だな、俺」
 有難う、と雲雀は笑ったが、夜鷹も礼を言いたい気分だった。
 夜鷹の家は父親も母親も夜鷹も、良く言えばひとりの人間として尊重されていた。両親は二人ともそれぞれの仕事を持ち、家事もほぼ平等に分担している。そして、家のこと以外はお互い干渉しないことになっているようだった。夫婦というよりは”パートナー”なのだと言っている。今回渡米する際も、母は仕事は辞めない。優秀なエンジニアであるところの彼女は、システム環境さえあれば世界中どこででも仕事ができるのだ。
 そんな家庭に在って、夜鷹は小さい頃からできるだけ自分のことは自分でやるようしつけられてきた。そのうち自分も子供ではなく”パートナー”に認定されるのではないかと思うほどだ。だから夜鷹はうまく人に頼るやり方を知らない。それでも雲雀たちと居ると、皆の距離感の取り方に救われてとても居心地が良かった。
 別れ際に、思い立って雲雀に礼を言うと、雲雀は一瞬不思議そうな顔をしたがすぐに笑顔になって、これからもよろしく、と言った。

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少年は触発を探していた。鎮守の森の遊歩道を駆け上がる。風はバイオリンの弓のよう。樹々の葉ずれを奏でる。コーダで繰り返す波の諧調。藪を抜けた崖の先でハーモニカを海に向かって吹く。猫がハイキーで伴奏する。

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 鎌倉霊園の鎮守の森を抜け、最後の石段を駆け上がると海が見える。滑川の源流自体はすっかりコンクリートで舗装されていて趣は無かった。やはり先程の東勝寺橋の写真がいいだろう。
 長く歩いて疲れた足を投げ出して、源流と同じようにコンクリートで舗装された崖の縁に座る。微かに潮の匂いがする風が額の汗に心地良かった。
 背中から降ろしたバックパックから水筒とハーモニカを取り出す。先ずは水を一口飲み、ハーモニカに目をやった。これは、亡くなった父方の祖父から貰ったハーモニカだ。祖父はハーモニカを吹くのが上手だった。夜鷹が唯一甘えられた相手だ。
「じいちゃん、俺、アメリカに行くんだってさ」
 祖父にはアメリカ人の友人が居たと昔話してくれたことがある。国に戻ってしまって以来会っていないが、一度行ってみたかったなあと死ぬ間際に言っていた。
 祖父の代わりに行くのだと思うとアメリカ行きも少しは前向きに受け取ることができた。海に向かってハーモニカを吹くと、近くに居た猫が甲高い声で啼いた。
 ”触発”というキーワードはなかなか挑戦的だ。斑鳩らしい。
 夜鷹は鎌倉全体をパノラマ撮影した。
 自分たちの時間はここで終わるわけではない。ここが、始まりの場所だ。

『始まりの刻』-モリフクロウ

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この物語はdekoさんの『少年のさがしもの』に着想を得ています。


鳥たちのために使わせていただきます。