日本語構造と内面化されたハラスメント、上下関係

日本語の持つ構造や主体概念と社会の関連について論じている良い記事だと思った。まぁもちろん言語だけの問題ではないだろうけど、根本的な世界観を作っているのは言語だ。
パワハラやカスハラをしてくる人は、日本語に埋め込まれている上下関係の構造を極めて強く内面化しているだけだと考えると楽になるかもしれない。

いわく、ヨーロッパや英語圏の言語の二人称と日本語の二人称が作り出す違いによって、上下関係や権力の対象性が言語世界から立ち上がらないことを
指摘している。(この世界が完全に対象だと思うのは幻想だと思うが)

欧米の場合は、法の下の平等が土台にあって、その上に確固とした「個人」が乗っている。その個人同士が法という共通プラットフォームの上で、「I」と「You」で言語により対等な社会・精神構造を作っている。

日本の場合は、法が土台であることには変わりないが、主語の種類がぐにゃぐにゃと変化することに伴い、社会的な対等さを主語によって担保できない。つまり、土台の上の個人が西洋言語世界のように確立していないゆえに、「社会」になっていない。

「わたしたちの言語の限界が、わたしたちの世界の限界である」
この世界は言語によって、わたしたちの精神の中に立ち上がる。
だから世界は言語によっていかようにも解釈できるし、言語によって限界も規定される。言語が変わっていくしか、パワハラなどの前提になっている世界観を取り除くことができない。

言語の用法が変わるには、かなり時間がかかるだろう。
「自衛隊」や「技能実習」といった文言でぼやかすことを好むが、ほとんど現実的には「軍」と「移民」である。この2つだけでも、言語と現実を一致させようとするとかなり時間を要すると思う。
まだまだ西洋から見たら日本の一面は、外側に近代をまとっていて、内側は近代的ではないように映る、「浮世絵」状態が続くのではないか。

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