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エッセイ | ドドールを飲む梅沢富美男が目の前で真っ赤な誓い。
現在、風邪を引いて寝込んでしまっている。熱はそこまで高くないのだが、喉が痛いし、特に体のダルい。ずっと布団の上で寝ているから、なにもすることがない。映画を見ようにも集中力が続かないし、本なんて読めたものではない。音楽を聴くので精一杯だ。
最近はCreepy Nutsの『オトノケ』と、oops coolの『Too busy work』をよく聞いている。しかし、どちらもアップテンポな曲なので、風邪のときに聞くようなものではない。周りの人たちを傷付けてしまうくらい気分が良いときに聞くような曲なのだ。
こういうときは、菅田将暉の『谺する』という曲が今の僕には一番合っている。こちらは菅田将暉の新曲なのだが、非常によく耳に馴染む。
話は変わるが、生きていたら色々思うことはあるけれど、どう考えてもドトールのカフェラテがこの世のカフェラテでいちばん美味しい。
タリーズは少しまろやかすぎるし、本格的な喫茶店は濃すぎるし渋すぎる。スタバはいつもフラペチーノばかり頼んでしまうから、カフェラテを飲んだことがない。そもそもメニューにカフェラテが存在するのかどうかすらも知らない。
この先もきっとスタバでカフェラテを頼むことはないだろうが、その代わりに、どれだけ歳をとったとしても「抹茶クリームフラペチーノのトール、ブレべミルク変更、ホイップ増量、キャラメルソース追加」は言える自信がある。
少し前までは手っ取り早いからという理由だけで、セブンイレブンやローソンのカフェラテを飲んでいたのだけど、冷静に考えればコンビニエンスストアのカフェラテがコーヒーショップに勝てるわけがないのだ。
別にコンビニのカフェラテが不味いという話をしているわけではなく、むしろコンビニにしては美味しすぎるとさえ思っている。
でもそれって「コンビニにしては美味しい」というだけであって、喫茶店でカフェラテを頼んであの味が出てきたら、きっと僕はブチ切れていると思う。22歳になってようやくそんなことに気が付いた。
気が付いたでいえば、ブラックコーヒーはどれだけ砂糖を入れてもブラックコーヒーと呼んでいいことになっているらしい。
ブラックコーヒーがブラックじゃなくなる基準は、砂糖の量ではなく、ミルクが入っているかどうかで、甘さの問題ではないようだ。
確かにブラックコーヒーの中に砂糖をどれだけ入れても色は変わらないが、ミルクは一滴でも入れれば限りなくブラックに近いブラウンになる。
ほんの少しミルクが混ざり合っただけで、別のモノのように感じてしまうのは、まるで初恋みたいだ。ゆっくり溶け合っていく様子や、甘いようでほろ苦いところも似ている。
実はこのブラックコーヒーの情報は、たまたまテレビを付けたときに梅沢富美男が言っていたものだ。はっきり言って信憑性はない。正直、事実ではなかったとしても僕の人生には何も影響しないので、改めて調べようとも思っていない。
そのくせ、まるで自分は前から知っていましたよ?みたいな顔をして、色んな友達に言いふらしている。もしそれが事実ではなかった場合、責められるのは梅沢富美男ではなく僕自身なのだが、もし責められたとしても「梅沢富美男が悪い」と言い張るつもりでいる。
もし僕が謝るときがくるとしたら、それは梅沢富美男に「騙されたお前が悪い」と言い返されたときだけだろう。そのときは言い訳せずに、素直に謝るつもりでいる。梅沢富美男に。
少し話は逸れるが、僕は梅沢富美男が好きだ。恋愛的な意味でも、友情的な意味でもなく、漠然とした感情の意味で「好き」だ。富美男になら何を言われても「はい!その通りだと思います!」とヘコヘコしてしまう自信がある。
この人の書く俳句はどれも美しいし、品がある。スピリチュアル的な物言いをしてしまうが、梅沢富美男の魂はきっと綺麗だ。
産まれてすぐの子供のように透き通っているはずである。まぁ産まれてすぐの子供の魂が実際に透明かどうかなんて知る由もないけど。
もし人の魂が見える人がいたら至急僕に連絡してほしい。梅沢富美男の魂がどんな色をしているのか、今すぐにでも知りたい。教えてほしい。
でも透き通っているのだから、きっと透明で、何も見えないのだろう。本来なら魂が見えるという人も、梅沢富美男を見たときだけは「何も、見えない…!?」と動揺してしまうはずである。
一方で、ダウンタウン浜田雅功の魂は真っ黒であってほしい。禍々しく、どす黒い色。ブラックホールみたいな、周りの全てを飲み込んでしまいそうな黒がいい。
もしそこに浜田雅功が立っていて、魂を見れる人がその前を通りかかったとしても、誰かの影だと勘違いしてしまうほどの真っ黒がいい。
ハマダーの方たちには申し訳ないが、僕は浜ちゃんの魂が黒ければ黒いほど良いと思っている。不快になったのならどうか怒らないでブラウザバックしてほしい。
ってかハマダーなんて言葉、
今となってはもう死語なのかな。
そう言えば、最近よく考えることがある。「目の前」と言うのは、一体どこからを目の前とするのだろうって。そんなくだらないことを思い付いてしまって、なかなか寝付けないときがある。ここからは話が長くなるので、覚悟してほしい。
「目」の前という言葉を文字通り解釈するのなら、眼球のすぐ前にあるべきなのだが、そんな言葉はまつ毛かメガネにしか使えない。
もう少し、ほんの少し離れた場所だったとしても、それを形容する別の言葉で「目と鼻の先にある」というものがある。つまり僕が普段「目の前」としているものは、正しくは目と鼻の先という状況であり、厳密には目の前ではないということになるのだ。
では、どこからが目の前なのか。もう少し離れた状況にしてみた。たとえば、腕を真っ直ぐ前に伸ばしたときに、指先が少し触れるくらいの距離だ。ソファの上に寝転がっているときに、机の上に置かれたテレビのリモコンに手を伸ばしてみるけど、なかなか届きそうで届かない。あの苛立たしい距離感だ。
これは目の前なのだろうか。いいや、これは目の前ではない。この状況は「手を伸ばせば届く距離」と言い換えることができるため、目の前ではないのだ。
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、実際に「手を伸ばせば届く距離」という言葉が存在する以上は、それを認めざるを得ない。少なくとも僕の中ではそうだ。この記事のルールは僕自身なのだから、異論は認めない。当たり前だ。
それではもう少し離してみたらどうだろうか。大体1メートル先だ。手を伸ばしても決して届かないし、何かを取ろうとするならば、必ず一歩踏み出さなければならない距離だ。
我々はこの絶妙な距離を伝えるとき、いつも何と言うのか。再びリモコンで例えてみよう。
「ねえねえ、リモコンどこ?」
「そこ」
そう。「そこ」である。これは目の前ではない。人間は近くにある物を指すとき「これ」「それ」という言い方をする。ある程度遠くなってしうと「あれ」に変わるが、目の前にあるものを指すときに「あれ」だけは絶対に言わないはずなので、こいつは論外だ。
では、本来「目の前」という言葉はどのような時に使うのか、冷静に考えてみた。例えば「ゴールは目の前」や「優勝は目の前」といった場合だ。言い換えれば「目前(もくぜん)」とも言う。
これは物理的距離を指すものではない。自分なりの言い方をするならば、時間的距離とでも言うのだろうか。目の前という言葉を使うとき、ほとんどはこのような場合ばかりな気がする。
でも物理的距離に使うこともあるにはある。だからこの結論は現実逃避でしかない。
流石に我慢できずに、僕は辞書を引いてみた。ブラックコーヒーの真意については長い間放ったらかしているのに、目の前についてはすぐ調べてしまった。こんなところで言葉の価値に優劣をつけてしまうとは。申し訳ない。
今頃ブラックコーヒーが泣いているだろう。そんなに泣いてしまっては味が薄くなってしまうよ…と心配になるくらいには泣いているはずだ。ファミマのコーヒーの味が薄いのは、きっと夜な夜な泣いているからに違いない。
話を戻そう。辞書で調べてみると、目の前とは「1.見ているすぐ前。」「2.時間的、空間的にごく近いこと。もくぜん。」と書かれている。
はて?
虎子もびっくりするほどのざっくりとした説明しかない。
僕が求めているのは具体的な距離なのだ。
その「見ているすぐ前」がどれほどすぐ前なのかを知りたいんだ。
これでは何の解決にもならない!
ふざけるな!
お前は辞書だろ!
辞書とは、「1.多数の語を集録し、一定の順序に配列して一つの集合体として、個々の語の意味・用法、またはその示す内容について記したもの。」だろ!?
「目の前」の意味は分かったが、用法、またはその示す内容について記していないじゃないか。
こんな雑な説明を書いた人間は、梅沢富美男に説教されるべきだ。「あんたの魂は濁ってる!」そう言われるべきだ。
でもこれだとまるで梅沢富美男こそが、他人の魂を見ることができる人間ということになってしまう。盲点だった。可能性としては決してゼロではない。灯台もと暗しというやつだ。
もしそうだったとしたらめちゃくちゃ熱い展開じゃないか?最終回のバトルで1期のオープニングが流れるくらい熱い。
もしくは、倖田來未とmisonoが初めて姉妹でコラボした曲『It’s all Love!』をリリースしたときくらい熱い。
梅沢富美男が浜田雅功のことを自分の影だと思い込んで話していたらどうしよう。自分は透明なのだから、影なんて出来るはずがないのに。
こんなのまるで『シックス・センス』みたいだ。M・ナイト・シャマランに「盗作だ!」と訴えられたらきっと負けてしまう。著作権だか知的財産権だか知らないけど、もし訴えられたときはこちらも全力で抵抗する。
「パクられたお前が悪いのだ」と。
(ここで1期のオープニングが流れる)
♪ ジャンジャカ ジャンジャカ
ジャンジャカ ジャンジャカ
♪ 人間の顎と 肘はくっつかないらしい
まるで俺たちの
運命(さだめ)みたいじゃないか
♪ ペンギンは漢字で 書くと人鳥らしいが
逆に鳥人は 笑い飯じゃないか
♪ 聞けよ イヤよ 聞けよ 知ってるわ(ウォーウォーウォー)
♪ 太陽が昇る方向を思い出すときに
まず最初にバカボンの曲を思い浮かべてる
西から昇ったの逆だから、本当は東って
かなり回りくどいことをしてしまっている
それもまた一興
《消費カロリー 5》
余談。
少し前、なんばのブックオフで『武装錬金』の全巻セットが100円で売られていのを見かけた。内容はほとんど知らなかったのだが、真っ赤な誓いという曲が有名なことや、蝶の仮面をつけた男が出てくるということだけは知っていた。
しかも、その日はたまたまブックオフのアプリで半額クーポンも持っていたため、なんと50円で買えてしまったのだ。
全10巻のコミックを抱えながら大阪をうろうろしていると、流石に愛着が湧いてきてしまうものである。とても愛おしくなって、ブーちゃんなんて名前も付けてみた。
しかし、本来は100円のものを50円で買ってしまったことによって、この本の価値はたったの50円という風に脳が錯覚し、それを必死になって持ち歩いていることがすごく虚しくなってしまった。
本の面白さや魅力は値段で決まるわけではないのに、50円のめちゃくちゃ重いものを持っているという感覚だけが恐ろしくなった。
もし『武装錬金』のファンの方がいたら、この作品の面白さを僕に全力で叩き込んで欲しい。50円で買えてしまったことを嬉しく思えるような。そんな話を聞かせてほしい。
完