黒ネコになった母へ
母は、静かな早朝にそっと旅立っていった。
30歳を過ぎた頃から、たくさんの大きな病気を抱え乗り越えてきた母は、そのたびに身体の機能を少しずつ手放してきた。趣味のお習字、自分の足で歩くこと、自分の口から食べること、寝返りを打つこと。そして最後は呼吸をすること。
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2年半前、渡米する私達家族のために親戚みんなで集まった時、母は突然泣き出した。普段はゆったり穏やかで、優しく孫たちをかわいがる母だ。声を上げて大泣きする姿なんて見たのは、もちろん初めてだった。もう会えないと予感したのかもしれない。
その予感は少しだけ的中した。母は半年後に病気が見つかり危篤状態を迎えた。私もアメリカから急遽帰国した。生死をさまよう状態で、何とか一命をとりとめたものの、それ以降は寝たきりになってしまった。
幸い意識はクリアだったので、話をしている限り、母らしさは損なわれなかった。でも母からしてみれば、人生で最も苦しくつらい時期であったことは間違いない。動けない、食べられない、何かするたびに誰かを呼ばなければならない。そんな不自由な生活が始まった。
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その1年4ヶ月後、私たち家族が日本に帰国した時、母はとても喜んで迎えてくれた。長い寝たきり生活で、心身の辛さは限界にきていたと思う。でも楽しそうに孫たちと会話を交わしている姿を見て、ほっとした。
その辺りからだろうか、母が急に「黒ネコのタンゴ」に並々ならぬ関心を寄せ始めたのは。
歌を流して。
歌ってみて。
歌詞を読んで。
歌詞を書き残しておいて。
母が何をきっかけに黒ネコのタンゴに夢中になったのか、不思議に思いながら、私達姉妹は言われた通りにした。
そして七夕の日、母の机の上にある短冊を見て驚いた。そこには「黒ネコになりたい」という願いがしたためてあった。入居している介護施設のヘルパーさんに代筆してもらったようだ。
真面目な母らしからぬ、ぶっ飛んだ願いに驚くと同時に、もう「元気になりたい」という願いではなくなったことに、母の悟りきった気持ちが見え隠れして胸が締め付けられた。
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母の最期をもたらしたのは、8月初頭のコロナ感染だった。コロナウィルスが母の身体を攻撃し始めると、鳴りを潜めていた悪い細菌たちが体内中で暴れ始めた。
やがて肺は一気に侵食され、レントゲンで見ると真っ白になっていた。呼吸機能は少しずつ低下していった。
最後に会話を交わした母の姿は、大学病院の提供してくれたタブレット画面の中だった。面会はタブレット越しで30分間のルール。まるでSF映画だ。
肺を侵されている母は苦しそうだったが、大好きだよと告げると、ありがとうと答えてくれた。できれば抱きしめたかった。身体の不自由な母にとって、一番安心感を得られるのが家族のスキンシップだったから。
奇跡的に母の状態は回復し、医師からリハビリの話まで出ていたので、私達姉妹はすっかり油断していた。そんな夜、病状は急に悪化していった。治療にあたっていた医師が、家族を呼び出そうと考え始めた時、母はついに呼吸すること、生きることを手放した。
「無理しないでいいのよ」ーー母は私達姉妹にいつもそう言っていた。最後の最後まで気を遣う母らしい幕の閉じ方だった。
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こうして母は黒ネコになった。
不自由な身体とはおさらばして、軽やかに歩き回る。人一倍気遣い屋だった母は、人の顔色なんか気にすることなく、今頃は大好きだった自然の中を自由に駆け回っているだろう。
いつか黒ネコになった母に会えたら、
そうしたら一度だけハグをさせてくれるだろうか。幼い私達が眠りにつく前、いつも母がしてくれたように。
気がつけば、夏ももう終わり。
今年は一度も花火を見られなかったから、秋に開催される多摩川の花火大会を塀の上から野良ネコたちとのんびり眺められるといい。
お母さん、ありがとう。
私もあなたのような偉大な母になれるよう、頑張って生きていくね。
母について以前書いた記事はこちら↓