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truthpenguin
【日本史10】大正史備忘録3(閥族批判・交詢社・憲政擁護会・美濃部達吉・一木喜徳郎・天皇機関説)
大正時代の学習を深めていきます。
①陸軍中将上原勇作の辞任は軍備拡張を実現したい陸軍内の中堅士官や上原所属の薩摩閥、元首相の長州閥の桂太郎たちが推進したものである。国民や政界の多くの議員からは陸軍のトップであった山縣有朋の意向と解釈された。
②第2次西園寺内閣が総辞職したのは山縣、陸軍、長州閥の専制的横暴だと閥族は批判をされた。
③福沢諭吉を筆頭に文化人や実業家が多く参加していた交詢社で閥族批判が展開された。元文部大臣で政友会の尾崎行雄、立憲国民党の中心議員であった犬養毅は憲政擁護会を結成して憲政を行う事と閥族政治の打破を唱えた。
④憲政擁護会はイギリスを筆頭とした諸外国の議院内閣制を例として「国民の選挙で議席を得た衆議院の第一党が内閣を担う事が正しい」と主張した。憲政と政治の関連性は東京帝国大学の法学者の美濃部達吉の『憲法講話』に刊行された。
⑤美濃部は法学者一木喜徳郎と一緒に天皇機関説を主張した。国の統治権は法人としての国家に属して天皇は国家構成機関の一つという事だ。昭和前期に天皇権威を否定する象徴学説となる。大正時代にはこの説は受容されていた。
⑥現代の日本国憲法と比べると大日本帝国憲法は国民の権利を制限していた。しかし藩閥の有力者や軍上層部が政治に大きく関わることの裏付けは条文には書かれていなかった。
⑦法律制定は天皇が帝国議会の協賛のもとで行われ行政担当の国務大臣が天皇を輔弼してその責務を果たすとは書かれている。
大日本帝国憲法は欽定憲法であったので憲政擁護会の意見は否定できなかった。
■参考文献 『1冊でわかる大正時代』 大石学 河出書房新社
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