【歴史22】ベトナム史備忘録24(張福巒・西山朝・阮氏3兄弟・阮福暎・鄭阮滅亡・昭統帝・阮恵・黎朝滅亡・ドンダーの戦い)
ベトナム史の学習内容を深めていきます。
①18世紀半ばに阮氏の協定内で張福巒(チュオンフックロアン)という重臣が権力を握って暴政を行った。西山(タイソン)地方(ビンディン省)で阮氏3兄弟である阮岳(グエンニャック)、阮恵(グエンフエ)、阮侶(グエンルー)が1771年に反乱を起こした。
②山を下った西山軍は国際交易港斧帰仁(クイニョン)を占拠しヴィジャヤ拠点を築いた。鄭氏は1774年に軍を送ってフエを占領し西山軍を破った。
③西山軍は鄭氏に従ったが阮岳は南部に逃げた阮氏へ攻撃は続けた。1777年にサイゴン攻略をして河仙の鄭氏を頼った阮氏を追撃して阮氏一族を倒した。阮岳は1778年に皇帝を称した。
これが西山朝である。
④阮氏一族のなかで阮福暎(グエンフックアイン)は生き延びていた。南部の華人とフランス人宣教師ピニョーのサポートを得てサイゴンをとりもどした。
1782年に阮福暎はサイゴンに攻め込んだ西山軍に敗れた。
⑤メコンデルタから西へ逃れてピニョーに景(カイン)王子を託してフランスへの救援を依頼するとともにバンコクに亡命した。
⑥西山朝は海賊軍団を取り込んで勢いを強めていた。
阮岳の弟である阮恵は軍事才能を発揮してシャムの援軍とともに南部に戻ろうとした阮福暎を倒して北進して鄭氏が占拠するフエを攻略した。
⑦黎朝皇帝の復権を掲げて北上して1786年に昇竜から鄭氏を追放した。鄭氏と阮氏は西山軍に滅ぼされた。
⑧阮岳は黎朝皇帝のいる北部以外を兄弟で3つに分けた。
阮侶は東定(ドンディン)王として南部を、阮恵はフエを拠点にハイヴァン峠以北を阮岳は皇帝としてヴィジャヤを拠点にハイヴァン峠以南を支配した。
⑨昭統帝(チェウトン)は、北部三部の豪族を頼って昇竜から逃げ出した。清朝に西山軍を排除して黎朝を回復するよう要請した。
⑩清朝の皇帝であった乾隆帝は昭統帝の救援要請をベトナムへの影響力拡大の好機ととらえ1788年に大軍を送り込み、昭統帝を昇竜の宮城の玉座に戻した。
⑪阮恵は1788年12月にフエで即位して光中帝(クアンチェン)となり清朝と黎朝を打倒するため北部へ進撃した。
⑫阮恵は阮岳は不仲になっており光中帝への即位は西山朝の分裂であった。1789年に阮恵は昇竜城以外のドンダーで清軍を破り清軍は昭統帝とともに撤退して黎朝は滅亡した。
これがドンダーの戦いである。
⑬阮恵は清に服従する姿勢を見せると乾隆帝は昭統帝を見捨てて光中帝を正統として安南国王とする。ベトナム北半分を支配した阮恵は北部文人のサポートを得るために儒教を重視して字喃(チュノム)を積極的に利用した。
⑭南シナ海の海賊を使って清朝を牽制して西方ではチュオンソン山脈を越えてラオ人のウィエンチャン王国に攻撃を仕掛けてビルマとの連携を模索するなど勢力を拡大した。
■参考文献 『1冊でわかるベトナム史』岡田 雅志 河出書房新社
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