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【歴史概要3】アレクサンドロス帝国の話

①BC334年からBC323年までギリシャからオリエント地域を支配した大帝国がアレクサンドロス帝国である。ここからヘレニズム文化が生まれた。

②アレクサンドロスはBC356年にギリシャ北辺のマケドニア王国で生誕した。その後父フィリッポス2世が暗殺され、20歳で王位を継承する事となった。

③BC333年にアレクサンドロス軍はダレイオス3世の率いるペルシャの軍隊をイッソスの戦いで打ち破りアケメネス朝ペルシャは滅亡する事となった。東に遠征を続けインダス川のほとりでインド王ポロスを倒し広大なアレクサンドロス帝国が興った。

④征服した各地にアレクサンドリアを建設しそこにギリシャ人は入植していった。遠征の後期には各地の勢力と東西融合政策を実施していった。

⑤BC323年にアレクサンドロスは体調を崩し32歳で亡くなった。
その後ディアドコイ(後継者戦争)が起こりプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの3つに領土が分割された。

⑥オリエント世界ではセレウコス朝シリアが台頭した。BC3世紀にはイラン系パルティアが東方で台頭し、バクトリアや小アジアペルガモンなども独立していった。

ギリシャ文化を強いたことによりユダヤ人の反乱が起きたため、BC142年にユダヤ人に自治を与えた。BC63年にローマによって滅ぼされた。

⑥プトレマイオス朝エジプトではプトレマイオス1世がエジプトのアレクサンドリアを拠点とし専制政治を行っていた。BC1世紀、子孫のクレオパトラ7世の時代にはローマのカエサルやアントニヌスと結んだ。BC31年にアントニヌスはアクティウムの海戦で敗れ、クレオパトラは自殺した。これにより滅亡した。

⑦アンティゴノス朝マケドニアはアレクサンドロス帝国の復興を目指した。ギリシャ的な市民を中心とした兵力があった。ローマと3度にわたるマケドニア戦争を行ったがBC168年にピュドナの戦いで敗れ滅亡しローマの属州となった。

⑧アレクサンドロス大王が亡くなってもヘレニズム文化は残った。後継三国や小アジアペルガモン、中央アジアバクトリアなどで発展を遂げていった。

これらの国々ではギリシャ語が公用語となった。

⑨コスモポリタニズム(世界市民主義)やストア派・エピクロス派といった哲学潮流、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケといった彫刻作品、大規模な博物館・図書館でもあった王立研究所ムセイオン(ミュージアム)などが勃興した。

アルキメデスやユークリッドなどの学者も有名である。その後インドの2~3世紀のガンダーラ美術(仏像)や8世紀、日本の天平文化にもヘレニズム文化の影響がみられる。

⑩現代マケドニア(北マケドニア共和国)は1991年にユーゴスラヴィアから分離独立したものである。

領土は部分的に被っているがアレクサンドロスが生誕とした古代マケドニアとは何の関係もない。

■参考文献 『滅亡から読み解く世界史』 関 眞興 実業之日本社

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