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【日本史8】平安史備忘録59(衣川の戦い・奥州合戦・藤原秀衡・藤原泰衡・義経討伐・奥州藤原氏滅亡・悲劇英雄義経

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①義経は平家打倒の立役者であったが戦後は頼朝に冷遇された。
壇ノ浦の戦いで義経は宗盛を連れて鎌倉へ向かったが頼朝の命令で鎌倉入りを拒否された。

②理由は屋島の戦いでの独断専行、頼朝の同意を得ずに後白河法皇に令外官の検非違使と官職の左衛門少尉に任じられた事、壇ノ浦の戦いで草薙剣と安徳天皇を失った事だと云われている。

③義経は頼朝に相手にされなかった。1185年(元暦2年)6月に都へ戻った。頼朝は義経の所領を没収した。叔父の行家の追討の命令を発した。義経は行家と手を組み兄との対決に臨んだ。

④義経は1185年10月に法皇から頼朝を討伐せよという旨の
院宣(いんぜん)を得た。しかし頼朝は各地の武士に敵視されておらず義経に従う者はいなかった。

⑤頼朝が義経を討伐すべく兵を起こすと法皇は態度を一変させて義経を討伐せよという院宣を頼朝に与えた。

義経と行家は逃亡したが、行家は和泉国(大阪府南西部)で頼朝の配下に捕まって倒された。

⑥義経は奥州藤原氏のもとへ落ちのびた。当主の秀衡に匿われた。義経が奥州にいる事は頼朝に伝わり引き渡しを求めたが秀衡は拒んだ。

⑦秀衡は1187年(文治3年)に亡くなり泰衡が継承した。遺言は『玉葉』と『吾妻鏡』に残されている。秀衡の死後に今度は義経を追討せよという旨の院宣が発せられた。

⑧1189年(文治5年)閏4月に頼朝の要請に屈した泰衡は義経が拠点としていた衣川館を強襲した。これが衣川の戦いである。圧倒的な戦力を前に義経は自害した。

⑨そして今度は後白河法皇に働きかけて奥州藤原氏を討伐せよという旨の院宣を得た。頼朝は自ら総大将となって28万ともいわれる大軍勢を率いて7月に進軍を開始した。

⑩奥州藤原氏は抵抗が困難だったため泰衡は北へ逃げた。8月には源氏の軍勢が平井泉を占拠した。

泰衡は郎党の河田次郎がいる贄柵(秋田県大館市)まで落ち延びたが次郎に倒された。次郎も後に倒された。

⑪1189年9月には奥州合戦は終焉した。

奥州藤原氏は滅亡した。奥州にも源氏の影響力が広がった。この合戦で平泉館や無量光院などの建物の大部分は焼失した。

⑫1988年(昭和63年)の調査で平泉館の堀や建物や庭園の跡、大量の輸入品の陶磁器などが発見された。

⑬頼朝が奥州制圧にこだわった理由は祖先の源頼義や義家の親子が前九年合戦で奥州有力者の安倍氏を倒した行為の再現と云われている。

自身の権威づけをはかるイメージ戦略であったと考えられる。

⑭平家打倒の立役者であったが頼朝の命令によって討伐されたため義経は悲劇的英雄の評価が定着した。『勧進帳』『義経千本桜』など義経題材の歌舞伎や浄瑠璃の演目が後世につくられた。

⑮判官贔屓は義経が検非違使の判官に就いていた事に由来する。義経は生き延びて大陸に渡ってモンゴル帝国の祖であるチンギス・ハーンになったという伝説があるが立証されていない。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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