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【日本史8】平安史備忘録49(寺社勢力の反発・源頼政・以仁王の挙兵)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①清盛の独裁に反発する勢力のなかには
寺社勢力が含まれていた。

②1180年(治承4年)2月に清盛は高倉上皇を厳島神社(広島県廿日市市)に招いて参詣させた。

厳島神社は平家の氏神を祀っていたが伊勢神宮(三重県伊勢市)や石清水八幡宮といった二十二社には含まれなかった。

③延暦寺、興福寺、園城寺(三井寺)は上皇を格下の神社に参詣させるのは古くからの権威ある寺社を蔑ろにする行為として大勢の僧兵を動員して清盛に抗議した。

④後白河法皇の皇子の以仁王が各地の武士と寺社に向けて平家打倒と自身が皇位に就くことを宣言する令旨を発した。

清盛は以仁王を皇族から外して検非違使に捕らえようとしたが持ち費地王は園城寺に逃れた。

⑤以仁王は鳥羽上皇の皇女である八条院の養子となっており八条院が母の美福門院から継承した所領を継承していた。皇族のなかで大きな財力と強い影響力を持っていた。

⑥滋子に敵視されて親王の称号は得られず皇族として格下の王の身分に留まった。清盛によって皇位継承は阻まれた。清盛は後継者である宗盛らに園城寺への攻撃を命じた。都の警備を担当していた源頼政を動員した。

⑦頼政は清盛に反旗をひるがえした。頼政は自身の邸宅に火を放って園城寺にいる以仁王に合流した。興福寺の僧兵と合流しようと奈良に向かった。

⑧平家方はこれを阻もうとして5月に宇治(京都府宇治市)で両陣営は衝突した。頼政は平等院に立て籠もり戦ったが以仁王を脱出させた後に自害した。

⑨逃亡した以仁王は綺田(かばた(京都府木津川市))で平家側に討伐された。以仁王の挙兵は失敗した。以仁王の令旨は源行家を通じて東国の源氏の間で広まった。

⑩源頼朝、源義仲(木曾義仲)ら反平家勢力が次第に決起していく事となった。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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