
Photo by
truthpenguin
【日本史9】明治史備忘録66(宣統帝・袁世凱・溥儀退位・清滅亡・外蒙古・内蒙古・戦艦薩摩・電気事業者・工場労働者増加・女子工員・工場法)
①中華民国建国宣言時点での範囲は主に南部だけで北京と北部の各省は清の支配下にあった。
この頃には西太后は亡くなっており宣統帝は6歳だった。政治と軍の実権は李鴻章の継承者の袁世凱が持っていた。
②孫文は袁世凱が中華民国の大総統になる事を認めてその代わりに最終皇帝である宣統帝(溥儀)を退位させるように要請した。
こうして宣統帝は退位して1636年から始まった清は滅亡した。
③日本政府は清政府と革命勢力どちらを支持するか意見が分かれた。宣統帝が退位後は皇帝一族をサポートして満州を独立させるよう主張した。最終的には満州に在留する日本人を守るために小規模部隊を派遣する事にした。
④犬養毅は中華民国政府との連携を主張した。
しかし辛亥革命の影響が天皇を中心とした統治体制を脅かすといった懸念があった。中華民国の政情は不安定だったので公式な外交関係は一時的に途絶えた。
⑤辛亥革命によって清の少数民族の分離が生じた。清の支配下にあったモンゴルは北部の外蒙古(モンゴル国)と南部の内蒙古(中華人民共和国内モンゴル自治区)の2つの地域があった。
⑥辛亥革命によって外蒙古は独立を宣言したが内蒙古は外蒙古との合併を主張した。
中華民国政府は独立を認めなかったが制圧はできなかった。
⑦日本政府は1912年(明治45年)7月にロシアと第3次日露条約を結んで中華民国の了承がないまま内蒙古の東部は日本、西部はロシアの勢力圏とした。
⑧1909年(明治42年)には日本の生糸の生産量は8372トンとなり世界1位となった。1910年(明治43年)に海軍で最大級の戦艦である薩摩が横須賀海軍工廠(神奈川県)で官製した。電力需要が増えて発電所建設、工場への電力供給、家庭で電灯普及が進んだ。
⑨1906年(明治39年)に89社だった電気事業者は1911年(明治44年)に272件となった。しかし日本経済は好調ではなかった。巨額対外債務を抱えて貿易収支は赤字であった。
⑩工場労働者は1900年(明治33年)の32万7796人から1909年(明治42年)に80万9480人となった。紡績工場や製紙工場では女子工員が劣悪な労働環境で働いていた。ほとんどは10代から20代の女性で貧しい農家の出身だった。
⑪寮に住み込みで集団生活を送り空気の悪い工場で12時間以上立ちながらの作業が通常であった。休日は年末年始とお盆だけも珍しくはなかった。重労働で病気になり故郷に戻ったり亡くなる女子工員も少なくなかった。
⑫農商務省工務局が調査を行って『職工事情』を1903年(明治36年)に刊行した、国家発展を維持するために労働者の保護が必要と政府は認識をした。1911年(明治44年)3月に日本で初めてとなる工場法が制定され施行は1916年(大正5年)であった。
⑬12歳未満の就労禁止、1日の労働時間の上限は12時間、最低でも月2回の休日の設置といった内容であったがきわめて過酷であった。対象者も常時15人以上の職工が働く工場に限られたため中小規模の事業所には適用されなかった。
また女工と15歳未満の労働者のみであった。
⑭大正時代に工場法は改正され工場は職工10人以上、1日の労働時間が11時間となった。要はたいした改善は見られなかった。
■参考文献 『1冊でわかる明治時代』 大石学 河出書房新社
いいなと思ったら応援しよう!
