見出し画像

【歴史21】スイス史備忘録28(ジュネーヴ市民階層・ヘルヴェティア協会・フランス革命余波・スイス人傭兵部隊壊滅)

スイス史の学習内容を深めていきます。

①18世紀の段階では市民総会はほぼ開催されなくなった。政治参加の権利を持つ人はほぼいなかった。

②商工業が発達したジュネーヴには近隣から多くの労働者が集まっていた。市民は4つの階層があった。有力な商工業者や上流市民のシトワイヤン、新商工業者はブルジョワ、市外移住労働者層のアビタン、その子孫のナティーフである。

③統治中枢の小参事会(二十五人会)に入る資格があるのはシトワイヤンのみであった。ブルジョワは拡大市参事会(二百人会)に入れた。しかしアビタンやナティーフは参政権はなかった。

④18世紀に入りブルジョワによる市民総会を復活させるための運動が始まった、1738年に実現した。ジュネーヴではこれ以後にナティーフの政治参加を求めた。

⑤1755年にウーリの臣従地レヴェンティーナで反乱が起きて弾圧されて首謀者は公開処刑にあった。1761年に公益増進と博愛主義の実践を目的とするヘルヴェティア協会が結成された。プロテスタント知識人のみならずカトリック圏の啓蒙思想家も参加した。

⑥フランスでは富裕商工業者のブルジョワが増えた。王侯貴族による支配体制への批判が高まっていた。国王ルイ16世はアジアや南北アメリカ大陸でイギリスとの対立が深まり1777年にスイス盟約者団と新たに傭兵契約を結んだ。

⑦1789年7月に課税問題をめぐって貴族階級と衝突したフランス市民の代表は独自に国民議会を設立して憲法制定を求めた。ルイ16世はこの動きを武力で抑え込んだのでパリ民衆は暴動を起こした。こうしてフランス革命がはじまった。

⑧フランスに隣接するスイスに広がってバーゼル、チューリヒ、ザンクトガレンなどで革命運動が起こった。

⑨1791年にフランスで王権制限をした立憲君主政が導入された。プロイセンやオーストリアなどは介入をはかった。

パリでは武装市民がブルボン家の王族と外国内通を疑い1792年8月10日にテュイルリー宮殿を襲撃した。国王一家を警備していたスイス人傭兵部隊が壊滅した。

⑩後にルツェルン市内には戦死したスイス人傭兵をモチーフにした瀕死のライオン像が築かれた。

体に槍が刺さったままブルボン家の紋章である百合の花が描かれた楯を抱えるライオン像である。

⑪1793年にルイ16世は処刑されてフランスは共和政となった。イギリスやオーストリアなどの国々は対仏大同盟を結成して反革命を打ち立てた。スイスは中立を維持してフランスは1790年代後半にスイスに軍隊を送り込んだ。

■参考文献 『1冊でわかるスイス史』踊 共二 河出書房新社

この記事が参加している募集

学習教材(数百円)に使います。