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【日本史7】鎌倉史備忘録19

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①承久の乱で勝利した幕府は戦後処理を行った。
新たに設置した六波羅探題に義時の息子である
北条泰時が就任した。在京御家人や西国の守護を監督した。

②上皇方の貴族や御家人から没収した多くの領地を幕府方の御家人たちに与えた。ここで地頭となった人々は新補地頭と云われた。

③新補率法という給与体系となった。11町(1町とは1㌶)ごとに1町の給免田と1段(1段とは約10㌃)ごとに5升(1升=1.8ℓ)の加微米を地頭のものとする基準である。

④1224年(貞応3年)に北条義時(2代目執権)が急死した。後継者争いは六波羅探題で義時の息子の泰時と義時の後妻の伊賀氏の系譜にある北条政村の対立であった。泰時は北条政子、幕府要人にサポートされ勝利した。

⑤北条泰時は3代目の執権となった。

1225年(嘉禄元年)に北条政子・大江広元などの幕府重鎮が亡くなり新たな政治体制の構築が強いられた。

⑦藤原三寅を鎌倉に迎えて九条頼経と名を変えた。そして8歳で4代目鎌倉幕府の将軍となった。

⑧頼経を補佐する仕組みは執権を補佐する事を所領として連署を新設した。そして泰時の叔父である北条時房を任命した。

連署は執権と合わせて両執権とも呼ばれ時房以後北条氏一門が任命された。

⑨源頼朝以後に形成された合議制をベースにして執権・連署ともに重要事項決定や訴訟の採決に関わって合議を行う評定衆が創設された。

⑩各地では承久の乱による一族間の対立、新補地頭の西国進出による紛争があり裁判の判断基準が要求された。そして1232年(貞永元年)に御成敗式目(貞永式目)が制定された。

⑪この式目は武士たちにもわかりやすく簡単に書かれており武家社会の慣習を重視した内容であった。武家最初の基本法典である。内容は51ヶ条であったが、必要に応じて追加されて鎌倉時代を通じて600条あまりとなった。

こうした条文は式目追加、追加法と云われる。

⑫1242年(仁治3年)に四条天皇(87代目)が急死したため幕府が擁立した後堀川天皇(86代目)系が断絶した。九条頼経(4代目将軍)の父である九条道家は順徳天皇(84代目)の息子である忠成王を後継にしようとしたが泰時は乱には直接関わらなかった土御門天皇(83代目)の息子・邦仁親王である後嵯峨天皇(88代目)を擁立した。

⑬泰時(3代目執権)は飢饉への対策や鎌倉都市開発、交通網の整備などに尽力した。1242年(仁治3年)に泰時は亡くなった。主に承久の乱の戦後処理を行い幕府根幹の政治システムを構築させて執権政治を確立させた。泰時の偉業は南朝の北畠親房や近世の幕末の尊王派にまで高く評価されている。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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