【歴史22】ベトナム史備忘録16(明の侵攻・胡朝滅亡・黎利・ラーンサーン王国・阮廌・後黎朝)
ベトナム史の学習内容を深めていきます。
①胡朝は何度もチャンパを攻撃した。チャンパ王は明に朝貢をした際に大越への攻撃を求めた。
②明の永楽帝は胡氏が陳朝を乗っ取った事と朝貢しているチャンパを攻めた事の懲罰を口実に胡朝を攻撃する事を決定した。
③1406年に100万人あまりの兵を大越に送った。明と歩調をとってチャンパは大越を攻撃した。
胡朝は人々からの信用を得られていなかった。
④明軍が来ると将軍は次々に降伏した。モンゴル軍と戦った際のゲリラ戦ができなかった。1407年に胡季犛と漢蒼は中国に送られて処刑された。胡朝は僅か7年で滅亡した。
⑤明はハノイ(東関)に交趾布政司(明の地方行政機関)を置いて大越の領土は5世紀ぶりに中国の一部となった。明は住民に重税を課して現地事情を考えずに統治した。
⑥こうして住民やエリートたちは明による支配を受容できずに各地で反乱を起こした。明への反乱を指揮したのは黎利(レーロイ)である。清化の内陸山地にある藍山(ラムソン)というムオン人のムオンの代表であった。
⑦黎利は明軍に敗れるたびに山中に逃げゲリラ戦術をとった。戦術はラーンサーン王国のサポートを受けて実行された。ラーンサーン王国は14世紀半ばにラオスに成立した王国であった。
⑧タイ系の集団が東南アジア各地のサン官房地につくったムオンも交易で発展した。有力なムオンを中心に大規模な連合体をつくった。ラーンサーン王国はムオン連合の一つである。
⑨黎利に協力したのは阮廌(グエンチャイ)である。彼はベトナム史で最も有名な文人の一人である。
⑩平野出身の文人官僚の一族に生まれて胡朝の科挙に合格して仕官した。胡朝の大臣であった父親が明に連行された後に明を倒すために黎利の軍師になった。
⑪黎利は阮廌を借りて各地の勢力を率いて明軍を打ち破った。1428年に黎利は皇帝(太祖)となり黎朝(後黎朝)を開くと都を昇竜に国号を大越に戻した。
⑫阮廌が考えたとされる『平呉大誥』(ビンゴーダイカオ)には陳朝の時代以上に独自文明と歴史への強い自負があった様子がわかる。
■参考文献 『1冊でわかるベトナム史』岡田 雅志 河出書房新社
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