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【歴史23】イラン史備忘録29(モンゲ・フラグ侵攻・アッバース朝滅亡・イルハン国建設・アイユーブ朝・サラーフウッディーン・ルイ9世・将軍バイバルス・シャジャルアッドゥル・マムルク朝・チャガタイハン国・タブリーズ)

イラン史の学習内容を深めていきます。

①3代目皇帝クユクハンが1248年に亡くなった。2代目皇帝オゴディハンの甥のバトゥは親戚のジョチ家やトゥルイ家と組んだ。トゥルイ家のモンゲが第4皇帝となった。1253年にモンゲは弟のフラグに西アジアの攻略を命じた。

②フラグは1256年にシーア派の暗殺教団を滅ぼして1258年にバグダードに攻め込んだ。アッバース朝のカリフ一族は処刑された。750年から続いたアッバース朝は滅亡した。

③1259年にモンゲは亡くなった。フラグは現地で独立をして1260年にイルハン国を建設した。イランはモンゴル人に支配された。

④エジプトやシリアなどを支配したアイユーブ朝はクルド人のサラディンが建立した。十字軍との戦いを打倒して一時的にイェルサレムを占領したのでイスラーム世界では英雄である。

1193年にサラディンが亡くなった。以降は多勢力の抗争と後継者争いで衰えていった。

⑤1249年から1250年にフランス王のルイ9世が第6回十字軍遠征で攻め込んできた。マムルク軍団の将軍バイバルスがこれを撃退した。

⑥アイユーブ朝ではスルタンが亡くなり後継者争いが起こった。マムルクは前スルタンの妻であったシャジャルアッドゥルを持ち上げてクーデターを起こした。マムルク朝が建設された。

⑦イルハン国は東欧のバトゥが樹立したキプチャクハン国とエジプト周辺のマムルク朝とは対立していた。キプチャクハン国はモンゴル支配であったがイスラームを国教としていた。アッバース朝を滅ぼしたフラグ率いるイルハン国と敵対した。

⑧アッバース朝のカリフはバグダードから逃げてマムルク朝に保護された。フラグはイスラーム教の信仰に寛容であった。また東のチャガタイハン国と西の東ローマ帝国とは友好的であった。

⑨イルハン国はチャガタイハン国を本家と認めていた。東ローマ帝国を通じてヨーロッパの人々とも盛んに交流した。イルハン国の首都タブリーズにはローマ教皇やフランス国王の使い、商人マルコポーロも来訪した。

■参考文献 『1冊でわかるイラン史』関 眞興 河出書房新社

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