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【歴史23】イラン史備忘録2(エラム人・メソポタミア文明・アッカド王国・シュメール人・ウル第3王朝・バビロン第1王朝・ハムラビ王・ヒッタイト王国・海の民・カッシート人・バビロン第3王朝)

イラン史の学習内容を深めていきます。

①BC4000年代の末にザグロス山脈の南部とペルシア湾に囲まれたエラムにエラム人がいた。エラム人の詳細は不明である。

②ザグロス山脈の西側にメソポタミア文明が栄えた。チグリス川とユーフラテス川の間の地方の事だ。北はアッシリア、南はバビロニア、バビロニアは南北に分かれていた。北部はアッカドであり南部がシュメールである。

③BC3000年にはバビロニア南部でシュメール人による都市国家がつくられた。エラム人はシュメール人の文字を用いてエラム文字を作った。エラム文字は2000年以上イラン高原で使われた。

④エラム人はエラムでとれる銅とシュメール人が生産する穀物を交換して経済力と軍事力を高めていった。

⑤BC2300年の半ばにバビロニア北部にあったアッカドにいたサルゴン1世はシュメールの初期王朝を倒してアッカド王国を建設した。

⑥BC2100年となりシュメール人が復活した。

バビロニアにウル第3王朝ができた。エラム人はメソポタミアの各地域と交易をしていた。

⑦BC2000年ごろにエラム人はウル第3王朝を滅ぼした。メソポタミアではバビロン第1王朝が勢力を広げた。BC1700年の後半にバビロン第1王朝のハムラビ王がメソポタミア全域を統一した。

⑧北のアナトリアから進出したヒッタイト王国にバビロン第1王朝は滅ぼされた。

ヒッタイト人は製鉄の技術や馬を活用して軍事力を誇示した。

⑨BC1200年ごろには海の民にヒッタイト王国は滅ぼされた。エラム王国はカッシートの支配下に入った。

⑩BC1700年ごろに出現したカッシート人はバビロニアを拠点とするバビロン第3王朝を建設した。バビロン第1王朝時代には兵士や農作業従事者であった。

■参考文献 『1冊でわかるイラン史』関 眞興 河出書房新社

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