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【歴史23】イラン史備忘録31(オスマン帝国台頭・オスマン1世・チャガタイ国分裂・ティムール帝国・アンカラの戦い・白羊朝・黒羊朝・カラユースフ・シャールフ・ウズンハサン・メフメト2世)

イラン史の学習内容を深めていきます。

①14世紀初頭にアナトリア地方でオスマン帝国が勢力を拡大していた。13世紀末にトルコ系民族のオスマン1世が組織した武装集団が周辺部族と戦いなら版図を大きくしていった。

②1326年に東ローマ帝国の地方都市のブロウサを占拠して首都とした。イスラーム法学者を集めて体制を築いた。

14世紀の後半に東ローマ帝国の都市アドリアノープルを占領してバルカン半島へ進出していった。

③チャガタイハン国は王位継承で内紛が起こり東西に分裂した。1370年ごろに西チャガタイハン国の軍人ティムールがサマルカンドを都にしてティムール帝国を築いた。

④アフガニスタン、イラン高原、イラク、シリア、アゼルバイジャン、北部インドなどを制圧した。王子や一族、戦争の功労者を支配権に派遣した。

1389年にインドのデリーを占拠して1390年にシリアを攻めた。

⑤1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国に勝利した。オスマン勢力は大打撃を負った。1405年にティムールは明遠征の中で亡くなった。知事たちは後継者内紛を始めてティムール帝国は統一性がなくなっていった。

⑥1408年ごろはアナトリア東部からアゼルバイジャンやシリア、イラク、イラン高原西部は多くの勢力が戦っていた。

⑦ロシアから南下してきたトルコ系遊牧民が新国家を樹立した。アルメニア東部には白羊朝(アクコユンル)がありアゼルバイジャンを中心に黒羊朝(カラコユンル)が成立した。

⑧1419年に黒羊朝のカラユースフはティムール帝国と戦ってイラン中央部に進出した。1420年にティムール帝国出身のシャールフが黒羊朝と戦って領土を奪還した。

⑨そして白羊朝や黒羊朝が戦ったり黒羊朝はシャールフが支配した。1447年にシャールフが亡くなった。ティムール帝国はさらに混沌とした。オスマン帝国やマムルク朝に敗れて領土を奪われて版図は中央アジア方面に縮小した。

⑩白羊朝は黒羊朝の支配となったが1467年にウズンハサンが黒羊朝に勝利して白羊朝が優位となった。イラン中央部まで領土を広げてティムール帝国を追放してイラン高原西部も獲得した。

⑪1453年に東ローマ帝国を滅亡させたオスマン帝国は白羊朝のウズンハサンを警戒し始めた。1473年にメフメト2世はオスマン軍を率いてウズンハサンと戦って勝利した。お互いに講和条約を結びユーフラテス川が国境となった。

⑫1478年にウズンハサンが亡くなって白羊朝で後継者内紛が起こった。白羊朝は弱体化していった。

■参考文献 『1冊でわかるイラン史』関 眞興 河出書房新社

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