①ウィーン体制下でイタリアではカルボナリ党による統一運動が進められていたが、オーストリアの圧力で封じられていた。しかしイタリアでは統一を求める気運は大きくなっていった。
②イタリアの統一運動をリソルジメントという。このような統一意識は18世紀から存在したと云われている。
③当時のイタリアはシチリア島とナポリ王国(イタリア半島南部)からなる両シチリア王国、ローマを中心にする教皇領、フィレンツェを中心にするトスカナ大公国、サルデーニャ島・ピエモンテ・ジェノヴァからなるサルデーニャ王国、半島の中央東部のパルマ公国やモデナ公国、オーストリアの支配下にあったロンバルディア(ミラノ中心)やヴェネツィアと別れている状態であった。
④ドイツが39の領邦国家と自由都市の連邦体であったのでそれよりはまとまってはいたが、経緯が複雑であり統一は簡単ではなかった。
⑤1848年にサルデーニャ王のカルロ・アルベルトがオーストリアに宣戦して第1次統一戦争が勃発した。しかしサポートする国はなくノヴァラの戦いで敗北し失敗した。
⑥1849年に青年イタリア党のマッティーニが樹立した
ローマ共和国がフランス軍のために敗北した。
⑦カルロ・アルベルトに代わってサルデーニャ王になったヴィクトル・エマヌエーレ2世は宰相にカヴールを指名した。カヴールはサルデーニャの近代化と積極外交を行った。
フランスのナポレオン3世とプロンビエールの密約を結んだ。統一実現後にサヴォイアとニースをフランスに割譲するというものだった。
⑧サルデーニャは1859年にオーストリアに宣戦した。サルデーニャ軍がソルフェリノの戦いで善戦するとナポレオン3世はオーストリアとヴィラ・フランカの和を結んだのでサルデーニャはロンバルディアしか回復できなかった。
⑨このような中で中央イタリアのモデナやパルマは教皇領の一部は新イタリアに合同される事を望む声が大きくなった。カヴールはナポレオン3世の調停でこれを実現した。
⑩イタリア南部では青年イタリア党のガリバルディが赤シャツ隊を組織した。両シチリアを抑えローマに迫っていった。
⑪ガリバルディは共和政信奉者であったので警戒したカヴールはサルデーニャ王とガリバルディの会見を設定し占領地をサルデーニャ王に献上させた。そして1861年にヴェネツィアと教皇領を除いた近代イタリア王国が成立した。
⑫1866年に普墺戦争にイタリアは参戦しヴェネツィアを獲得した。普仏戦争に際しローマに駐留していたフランス軍が撤退したのを利用して教皇領を併合した。
教皇はヴァチカンに籠る事になった。
⑬この際にイタリア王国は首都をトリノからフィレンツェ、ローマと移していく。
教皇との関係は1929年にムッソリーニ政権とのラテラノ条約でヴァチカン市国の成立を相互に確認するまで続いた。
⑭チロルやトリエステなど未回収のイタリアといわれる地域の併合は第1次世界大戦、第2次世界大戦後まで持ち越される事となった。
■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社