【歴史概要101】ペロポネソス戦争・テーベ・マケドニア台頭
①ペルシア戦争勝利後にアテネでは民主政は完成した。
スパルタでは深刻な問題が進行していた。貧富の差が拡大し貴族(スパルティアタイ)の間の平等が崩れリュクルゴス体制が維持できなくなってきた。
②奴隷(ヘロット)の反乱が頻発して不穏な状況となっていた。スパルタにとってデロス同盟の盟主であるアテネは脅威となっていた。
③アテネとスパルタの戦争のきっかけはアテネとコリントの経済的対立であった。コリントはスパルタを中心としたペロポネソス同盟の一員であったため両者の対立はデロス同盟対ペロポネソス同盟の対立に拡大した。
④BC431年にスパルタによるアテネ攻撃からペロポネソス戦争が始まった。
アテネが優勢であったがペリクレスが採用したアクロポリスへの籠城戦の疾病が流行りペリクレスや多くの市民が亡くなった。
⑤それ以降、煽動家たち(デマゴーグ)が戦争を長引かせた。アテネは疲弊して、BC421年にニキアスの和約が結ばれた。一旦休戦した。この条約は効果をもたずアテネが行ったBC415年のシチリア島遠征は失敗した。
⑥BC405年のアイゴスポタモイの戦いでも敗戦を重ねた。BC403年にアテネが占領されてデロス同盟側の敗北で戦争は終焉した。
⑦スパルタがギリシアに君臨するとスパルタへの不満が高まった。ここでペルシアがアテネの復興をサポートしアテネは勢力を回復した。スパルタがコリントに背かれるとスパルタがペルシアに接近した。
⑨BC386年のアンタルキダスの和約を結んでペルシアの威を借りてギリシアに君臨しようとした。
ギリシアとスパルタが勢力争いを繰り広げる中、強くなっていったのがテーベというポリスである。
⑩エパメイノンダスが軍政改革を行って、テーベがスパルタを倒した。テーベが一瞬だけギリシアに君臨した。このなかでバルカン半島の北方でマケドニアが台頭し始めた。
⑪ギリシアではマケドニアを巡って汎ギリシア主義とマケドニア主義が出てきた。
前者はイソクラテスが中心で後者はデモステネスが中心であった。後者からアテネとテーベの連合軍が生まれた。
⑫BC338年にこの連合軍はケーロネーア(カイロネイア)で戦ってマケドニアのフィリッポス2世に敗北した。ここで古代ギリシアの時代からフィリッポス2世の子アレクサンドロスによってヘレニズム時代に移行していく。
■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社
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