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【歴史21】スイス史備忘録33(保革抗争・防衛同盟・分離同盟戦争)

スイス史の学習内容を深めていきます。

①スイス革新派の一部は外国の革新派と協力していた。チューリヒ大学神学部は1839年にプロイセンの自由主義的な神学者ダーフィトシュトラウスを教授として招こうとするが保守派から強い反発があり受け入れを断念した。

②1841年にアールガウではカトリックにとって不利な制度改革が行われたために修道士たちが主導する暴動が起こった。アールガウ政府は8つの修道院を廃止したが盟約者団会議の勧告で4つの女子修道院が復活した。

③ルツェルンでは1841年に保守派が政権を握りイエズス会に教育事業を委ねた。急進的なリベラル(自由主義)派は武力による反乱を試みベルンやアールガウからも数千人の義勇軍を迎え入れた。

④カトリック地域の保守派諸邦であるウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、ツーク、フリブール、ヴァレーはプロテスタント地域との武力抗争に備えて1845年に防衛同盟を結成した。

⑤邦同士が盟約者団全体の利益に反する同盟を結ぶ事は1815年の同盟規約で禁止されていた。

リベラル派、急進派から分離同盟だと非難された。

⑥1847年にザンクトガレンで保守派からリベラル派・急進派への政権交代が起きて盟約者団内で分離同盟に反対する邦が増えた。盟約者団会議で分離同盟の解散を求めてリベラル派・急進派の主張に沿った同盟規約の改正を決定した。

⑦10月にはジュネーヴ出身でナポレオン時代のフランス軍に属した経験をもつアンリデュフールが司令官となった。保守派の勢力を相手に軍事行動を起こした。これが分離同盟戦争である。

⑧結果として戦いは3週間続いたがルツェルンが占領されて分離同盟は解体されて保守派は政権から追放された。

■参考文献 『1冊でわかるスイス史』踊 共二 河出書房新社

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